神は私たちと共におられる

降臨節第一主日説教より

司祭 アンデレ 中村 豊

 英国チェスターに起源をもつ大洪水という宗教劇があります。これは復活を前にして演じられるものです。この劇で面白いのは一体誰が最後にこの船に乗り込んだのかというくだりです。それはノアの妻であったのです。なぜ最後になったか。雨になり、ノアの子どもたちや奥さんは乗り込んだというのにノアの妻はどうしても方舟に入ろうとしないのです。ノアは「どうしてそこに突っ立っているのだ。乗らないとおぼれ死ぬぞ」と叫びます。しかし妻は「私にはここに沢山の友人がおり、この中の一人でも助けることができるならばいいでしょう。それが出来ないなら、私は残ります。別の人を妻としてください」と捨て台詞をはき、おしゃべり仲間のところに戻り、酒を飲みいい気持ちになっている。方舟のドアが閉じられる直前、ノアや子どもたちがノアの妻を引きずって方舟に乗せるのです。少々雨がふっても大洪水にはなりはしない。そのような油断がノアの妻にあり、もっと重要なことは、地上の世界では何でも手に入り楽しくて仕方がない。この楽しさをどうしても手放すのが惜しい。そのような思っていたのです。洪水の時、問題にすべき人物が溺れてしまいました。方舟を造った大工さんだと救世軍の山室軍兵氏は注解書で述べております。

■溺れた船大工-----------------------------------------------------------
 全く洪水などきそうにない時に神は大雨を降らせるとノアに知らせます。まじめなノアは巨大な方舟を造る決心をするだけではなく、平穏無事に毎日楽しく暮らしている人たちにも、「神の裁きがあるから回心し、船を造りなさい」と言った筈です。しかし、町の人たちは全くノアの言うことは聞かないのです。ノアにも問題があります。農耕を業としているノアが神様が命じる巨大な船を造ることがでないのです。当然ここで船大工さんの指導が求められるのですが、その人が見つかり巨大な船が完成します。では、その大工さんは洪水が起こった時どうなったか。船を造ってくれたから助けてあげたとはどこにも書いておりません。この大工は要するにお金目当てのために船を造っただけであって、「大洪水などくるはずはない、モーセという男は頭がおかしいじゃないか」と心で蔑んでいたのです。このような不遜な態度・姿勢が自らを滅ぼす結果を招いたのです。
 人間が自分たちの英知と努力を結集して作り上げた社会とここでの快適な生活を楽しむことがどうして悪いのか。むしろ、この状態を打ち壊してしまうことは断じて許せないという姿勢がここに見られます。

■聖戦の実態-----------------------------------------------------------
 イタリア、ベネティアのサンマルコ教会の入口に4頭の馬のブロンズ像があります。これは複製で本物はもっと小さいものですが、イタリア人が作製したのではなく、歴史的にも芸術的にも希少価値のあるビサンティンの芸術品のひとつです。どうしてそれがベネティアにあるかと言いますと、もともと、イスタンブールにあったものを、1200年初め結成された弟4回十字軍が略奪したのです。
 十字架軍は当初、スペインで起こったイスラム教徒に対する小さい規模の聖戦が発展したものです。それが次第に拡大したのは色々な事情がありますが、アルクリアヌスという人が9世紀初頭、ノアの洪水の注解で次のようにいいました。「アジア、ヨーロッパ、アフリカ大陸は大洪水の後、ノアの息子に割り当てられた。セムはアジア、ハムはアフリカをヤペテはヨーロッパ、しかもヨーロッパはキリスト教社会ではあるが、イスラム教徒がアジアをさらにアフリカを自分のものにしようとしているのは我慢のならないことである。」 一種のこじ付けのいより、イスラムによって支配されていた聖地エルサレム奪還が開始されたのです。当初から十字軍は宗教問題だけではなく人種的偏見や異文化を蔑んでおり、十字架軍は多くのユダヤ人を迫害し、東方の人たちに憎悪を与え、最も残念なことは、イスラム世界の知的財産を粉々しに、イスラムの人たちがキリスト教に平和的に適応する絶好のチャンスを奪ってしまい、東方教会にも計り知れないほどの損害を与えたのです。
 このような歴史的事実を知ってか知らずか、ブッシュ大統領がテロ撲滅を現代の十字軍といったとき、イスラムやキリスト教のどれだけの人たちがこの発言に不信感を抱いたことでしょうか。狡猾なベネティア商人の策略などでイスタンブールを侵略し略奪した3頭の馬はその象徴的存在なのです。

■神は私たちを用いられる-----------------------------------------------------------
 しかし、腐敗堕落した社会や教会にも必ず判決が下されてきたのです。必ず良心的な人たちが現れ、改革がなされてきているのです。対イスラムに関して教会はようやく約40年前に門戸を開き対話が開始されたのでした。
 マタイ福音書24章39節「人の子が来る場合もそのようである」とありますが、「来る」とは来臨・パルーシアというギリシャ語が用いられております。イエス・キリストが肉体をもって来臨するだけに限りません。霊的に来臨するという意味もそこにあります。つまり、来臨は将来の出来事ではなく、キリストは実際私たちの中にしばしば来臨されていると理解してもよいのです。神の御心に適わないところを改革しなければならないという思いを私たちに起こさせ、それを実行に移しているとき、そこに神の栄光は現されます。その時、私たちは神の御手にふれ、神がおられることを実感することができるのです。
 今の世界でどのような矛盾が存在し、それを変えていくために神はどのようにして私たちを用いられるのか。これを知ることが降臨節で求められております。


© 2001 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai