聖 戦

司祭 パウロ上原信幸

 先日、日本国内でアフガニスタンの復興会議が行われ、多くの関心がよせられました。タリバンが生まれたのも元はと言えば内戦がきっかけですから、ふりだしにもどっただけで、これから和平にむけての本当の格闘がはじまるはずです。
 憎しみを乗り越えるのは生やさしいことではないことを、歴史は如実に物語っています。ことに内戦状態になって、これまでの隣人同士が戦った場合は、互いに顔が見えるだけに傷跡も深いでしょう。

ゆるせません
 イエス様は人を赦すことを繰り返し教えられました。
以前、主の祈りが文語から口語になったとき、非常に祈りにくいという声をしばしば耳にしました。特に、「我ら赦すごとく」から「私たちも人を赦します」と明確になった部分が非常に気になるというのです。
「赦すごとく」というのが、「赦した程度に」を意味するのか、「赦すように努力していますから」なのか「赦す」のか曖昧な理解のままで祈っていたので、さほどやましさを感じなかった。しかし、「赦します」と断言できる程の状態でもないのに、赦しますとは祈れない。新しい祈りの場合は、この世的にいえば、虚偽申告で免税してもらおうとするように感じるので、そのような祈りはできないというものです。
赦そうとしても赦せない。自分に偽らなければそう言わざるを得ません。もちろんイエス様の勧めは、ほっておいても人間がきちんとできるようなことについてはなされていません。愛せない。喜べない。確信をもてない。だからこそ繰り返し、愛せ。喜べ。恐れるなと教えられました。
 人間はもともと怒りっぽいものです。どんなに気力がなくなっていっても、最後に怒る力だけは残ります。疲れれば疲れるほど、怒りの感情を抑えることが難しくなります。
疲れれば疲れるほど、角がとれて温厚になることができれば、どんなによいかと思いますがそうはいきません。
このように考えると、イエス様はなんと難しいことを教えられたことかと思います。
しかし、私たちにとって、最も難しい課題を与えられたわけではありません。

不正義の戦い
怒りという感情を持ちつづけることは嫌だと感じる人も多いでしょう。ところが実際は、人は怒りの感情を、他の感情よりも長く持ちつづけることが出来ます。
人間はいやなことを続けることは難しいので、その状態が心地よいから続けることができるのではないかと思います。
相手に対して怒りの感情を持つ時は、自分が間違っているとは思わないものです。少なくとも、自分もちょっとは悪いかもしれないが、相手にはもっと非があると思っているはずです。つまり、怒っている間は、自分を正しい側に置くことができるのです。
 逆に、謝らなくてはならない時、これは自分が正しくないことを認めなくてはならないので、これほど居心地の悪いものはありません。
 この謝るということが、最も難しいことで、相手に対して怒りを感じている時に、心から謝ることはまず不可能です。
 イエス様は、人の間に起こる様々な問題について、反省して赦しを願いなさいとは教えられず、赦しなさいと教えられました。
つまり、あなたが間違っているかどうかは、この際置いといてあげよう。あなたは正しい者として、間違っている者を赦してあげなさいと教えられたのではないかと思います。
 イエス様ご自身がなさった、罪のあるものを裁かずにおくということは、極めて不正義です。有罪であるものを罰せずにおくというのは、私たちにはなかなか受けいれがたいことです。しかし、その不正義によって私たちは赦されています。
私たちが、この世で行なわなくてはならない平和の為の戦いは、私たちの願う正義を実現することではなく、私たちの正しいとするところを捨てなければ始まらないこともあります。


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