食卓から落ちるパン
(マタイ福音書15章より)

司祭 アンデレ中村豊

 ミカエル教会での一日は猫と鯉と金魚に挨拶することから始まります。

早く餌を
 朝起き部屋のドアを開けると我が家のねこ「ミルク」が近づいてきて足にまつわりつきます。親愛の情を私にあらわしているのではなく、「早く朝ご飯をちょうだい」とねだっているだけなのです。池では3匹の鯉と20数匹の金魚が、私が顔を出すところをぐるぐると回っており、私を認めると我先にやってきます。「おはようごさいます。今日も元気に頑張りましょう。」と挨拶しているのではなく「早くえさをまいてちょうだい」とねだっているのです。ねこも鯉も金魚も、えさをあげたあとは知らんぷり。冷たいものです。
 礼拝後教会の前を掃除をしておりますと「キー」とブレーキの音がしたと思うと、交差点の方からけたたましい叫び声が聞こえます。どうしたんだろうとそちらの方を見ますと、初老の女性が車の運転席の窓ガラスをたたき、泣きながら怒っているのです。2匹の子犬を連れて交差点を渡る途中、そのうちの1匹が車に巻き込まれてしまったのです。幸い犬には怪我はありませんでした。
 この女性は巻き込まれた犬をいとおしく抱きかかえ、奇声を発しながら足早に去っていきました。この女性にとって2匹の犬は自分のいのちの次に大切なものであったようです。

先駆けは赦せない
 今年二月半ばフィリピンを訪問しました。滞在中、ピナツボ火山噴火で家が数メートルの火山灰で覆われてしまい、その土地を捨てざるを得ず、ニューラウィンという村で開拓を開始した家を訪問しました。車がこの家に近づきますと、やせこけた犬がほえながら私たちを迎えます。しかし、私たち一行がこの家の客人であることがわかりますと全くほえないのです。
 庭の食卓に焼き魚と肉と野菜の煮込みそして米飯が並べられました。食卓につきますと、その回りに丁度、5,6匹の犬の出産を終え、子犬におっぱいを吸われげっそりやせこけてしまったお母さん犬とその夫、子犬たち、にわとり、ねこなど20匹以上の動物たちが私たちの食事をじーと眺めているのです。丸々と太った動物は一匹も見かけません。誰かが骨付きの肉を地面に投げました。そうしますと、それ目がけて一斉にかけより猛烈な争奪戦が繰り広げられます。そのなかで際だっていたのが出産を終えたばかりの犬で、歯を剥き出しにし鬼のような形相で、何とかして餌を奪おうとしているのです。食事が終わり、余りものをかき集めそれを動物たちにあげます。しかしそこでもこの母犬は自分だけが沢山食べようと他の犬やねこを蹴散らそうとします。栄養不足を何とか補おうと必死になっている気持ちが痛いほど伝わってきます。ところが、それを見た主人はこの犬のおしりをおもいきりたたき、「自分だけが食べようとしないで、みんなと分かち合いなさい」と叱りとばすのでした。この家では闘鶏用のにわとりでさえそのくちばしを家の者に向けることはしないのです。人と一緒に暮らしている動物たちは主人からの餌なくしては生きていけないからです。

神の前での謙遜
 私たちも主人である神さまから見放されてしまったら路頭に迷い全くの独りぼっちになります。主人の憐れみと恵みなくしては生きていけない、貧しい存在なのです。神さまはその貧しさと孤独のなかで、ご自分の愛を与えて下さいます。
 「わたしたちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐れみを信じてみ机のもとに参りました。わたしたちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りない者(祈祷書181頁)」であると告白し主の食卓、すなわち陪餐の列に加わり、主イエスの血と肉を霊の糧として食する一人ひとりなのです。このような謙遜な姿勢を神さまは喜んでおられるのです。


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