和解と平和
2002神戸市民クリスマスメッセージ

太田道子
キリスト教のお祭りであるクリスマスは、今では日本の年末行事の一つになっています。そのため、ベツレヘムという地名もよく知られています。

生活を奪われた人々

 私は、そのベツレヘムから十日程前に帰国しました。ここ8年間連続して、1ヶ月ベツレヘ、1ヶ月日本という生活なのです。何をしているかというと、私の主催する「NGO 地に平和」が、ベツレヘムにあるパレスティナ難民キャンプで支援の活動をし、そのために若い会員を派遣しているので、彼らに託したプロジェクトの様子を見たり手伝ったりしに行き、日本に帰ると、会の様々な勉強会で現地の状況を説明するのです。
 今回帰国する際には、派遣員も一緒に帰りましたので、私が来月中旬現地に行く迄、この難民キャンプには誰も日本人はいません。これは私たちがプロジェクトを起こして以来、始めてのことで残念です。ベツレヘムがイスラエルの軍隊によって「封鎖」され(つまり、ベツレヘム市には自由に出入りできない状態になり)、その上、市内には「禁足令」(すなわち、誰も家の中から一歩も外に出られない)という恐るべき命令が、イスラエル軍の戦車に乗り機関銃を構える兵士によって、厳重に実施されているからです。私たちは、ベツレヘムの聖誕教会(キリスト教会2千年の歴史の中で、キリスト誕生の地と伝承されている所)の近くに、活動のための事務所兼住居をもっているのですが、禁足令では家に閉じ込められていて活動ができないし、危険も伴うかもしれないのです。
 禁足令は何日かに一度、数時間解除になります。その間に人々は大急ぎで、病院に行ったり次の数日間のための食糧を買い込んだりしなければなりません。外国人には町全体の「封鎖」は必ずしも適用されるとは限らず、また、十数日前午後4時間程禁足令が解除されたので、私たちはベツレヘムからエルサレムに出て、日本に帰って来ました。
 戦車や銃を構えた兵士によって家に閉じ込められているベツレヘムの人々、特に大家族でも狭く粗末な家しか与えられていないキャンプの難民の苦しみを考えてください。彼らが、五十年前に(イスラエル国の独立によって)奪われた自由と人間的な生活を取り戻すためには、先祖代々彼らが住んで来たパレスティナの地を軍事占領したまま和平に応じようとしない、このイスラエル国との和解が前提なのです。

 悪魔に心を売り渡す
      武器輸出国

 その五十年間、私たち日本を含む国際社会は、イスラエルとパレスティナの和解と和平への歩みを、決して効果的に支援しては来ませんでした。それどころか、世界のどこかに武力・暴力の紛争があれば、そこに大小様々な武器を売ることができるから、自分の国の経済が繁栄すると考える武器輸出国が、世界中で紛争を煽り、ここパレスティナーイスラエルにもいわゆる代理戦争をさせ続けているのが真相です。
 歴史的にパレスティナ地方と呼ばれる四国程のこの地を、先住民であるパレスティナ・アラブ人から奪ったり(些かは)買ったりして独立国となったイスラエルは、世界有数の軍隊をもっており、特殊な武器の輸出国ですらあります。おそらくアラブ及びイスラム諸国の全部を相手に戦争をしても勝つであろう力をもっています。
 それに対してパレスティナ側は、勿論未だ独立できずにいるし、当然軍隊もありません。密輸を主とする小型武器によるゲリラ戦に頼らざるを得ません。その武力抵抗の中心はご存じの通りの自爆テロです。何が彼らにこの狂気の手段を選ばせるのでしょうか。

   誰も和解の手を
     差し伸べない

 イスラエルーパレスティナ双方に「武器捨て、話し合いによって和平に到達せよ」と言うのは容易でしょうが役には立ちません。和解には先ず、お互いが信頼しあえる状況を創り出さなければなりませんが、五十年間も紛争がこじれ続けた今となっては、当事者だけではもう無理です。国際社会からの強力な、明確な、継続的な、且つ決して自国の国益に囚われることのない支援の介入が不可欠です。
 誰が、その努力をするべきでしょうか。キリスト教会を始めとする諸宗教は殆どそれをしてきませんでした。欧米のキリスト教国は、ユダヤ人迫害の歴史とその頂点であるナチ・ドイツのユダヤ人種破滅行為が彼らの良心に刺のようにささり、心理的に金縛り状態だという事情もあって、なかなか公平な支援ができずにいるのです。

   重要さを増す
    日本の立場

 日本はどうでしょうか。技術・経済大国を自称する日本は、ユダヤ人迫害の歴史はありません。中東の石油には非常に依存しています。しかし、率先して紛争解決の支援をするには現代国際政治に関する外交上の、更には思想的な、力量が必要です。キリスト教徒として歴史上のユダヤ人迫害に連帯責任があり、更に日本市民である私たちこそ、イスラエルーパレスティナ紛争の解決に積極的な役割を果すべきではないでしょうか。
(続く)


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