暗闇の業

司祭パウロ上原信幸

 先日米子の教会で行われた会議に出席するため、久しぶりに山陰へ行きました。
 十数年前、隣町の境港の教会にいたことがありますので、非常に懐かしい場所です。
 境港は日本有数の漁港で、港に近い牧師館の窓からは、隣家の屋根越しに、港に出入りする船の煙突を見ることができました。
 港の朝は早いので、朝7時には一仕事終えた人たちのために、パチンコ屋さんや床屋さんも開いていました。
水揚げされるのは、鰯や鰺、イカといった大衆魚が中心ですが、漁獲高はしばしば日本一になっていました。
昼の港は、どちらかというとのんびりしていて、港で遊ぶことを日課としている子どももいます。というのも港には色々なものが落ちていて、遊び道具にはことかきません。
その中でもひときわ目をひくのは、ピンクや黄緑といった蛍光色のゴムに針をつけた、イカ釣り用の餌です。

疑似餌
 夜のネオンのように派手で、昼の光の下でみれば、餌というよりもおもちゃのようです。
どう見てもおいしそうには見えないのですが、暗い夜の海で漁火に反射したこの疑似餌に、イカは騙されて飛びつき、抱きついたまま船につり上げられてしまうのです。漁火も所詮人工のものですから、太陽のもとでは、たいした明るさではありません。
 しかし、人間もイカの愚かさを笑うことはできません。キラキラと光るものに飛びついたら、作られた偽物であり、すべてを失ってしまうケースは沢山あります。
投資に失敗して全てを失う人、心はずむものだと思い、知らないうちに覚醒剤に溺れてしまう人。最近では低年齢化が進み、麻薬や覚醒剤の乱用で逮捕される少年少女が1万人以上になっているといいます。
麻薬に限らず、「すてきなもの」「自分を幸せにしてくれるもの」「豊かにしてくれるもの」だと信じていたものに、裏切られて、絶望のうちに自ら死を選ぶ人も少なくありません。
最近、電車に乗ることは極めて少ないのですが、それでも駅のホームで、「人身事故のため不通」というニュースを聞きます。頼っていたものに裏切られ、新しい希望の光を見いだすこともできず、疲れ果て命を絶つのでしょう。

光の子として
 使徒聖パウロは、「光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみにだしなさい。」と語っています。
 作り物の光の中では、見誤ってしまうことでも、本物の光の中では、見極めることができる、そのような存在として、主はこられました。
 預言者マラキは主の来臨について、「わたしたちのために義の太陽が昇る」と記しています。
人間が固執し、また頼みとするこの世のものを色褪せさせる光、変わることのない希望の光がある。そのことを世に知らせるものとして、私たちキリスト者は召されています。
しかし、私たち自身もしばしば、実を結ばない偽物に心を奪われしまいそうになります。
 この顕現節を、主が私たちに現して下さったご栄光に心に留め、確かな希望を持ち、また伝えていく時としたいものです。


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