希望
−2002神戸市民クリスマスメッセージ−

太田道子

 イスラエルーパレスチナ間の紛争には、解決の希望があるのでしょうか。
 同時に、アメリカーイラクの戦争を回避し、中東に平和をもたらす可能性はあるのでしょうか。更にそれによって、キリスト教圏対イスラム圏の対立という破壊的な構図を、全世界に平和をもたらすための宗教間の協力という構図に作り替えることは、可能なのでしょうか。

飽食国家日本

 制度としての宗教や主義・主張による差異や紛争の渦巻く中で、現代の地球社会を共に構成する私たちすべての「地球市民」は、既に私たち自身が散々に破壊した世界を癒す可能性を信じ、希望を抱いているでしょうか。
 私は、毎回、パレスティナから日本に帰って来る度に、井戸の底に沈み込むような不思議な感じをもちます。
 イスラエルーパレスティナでは、周囲の人々が、紛争という状況に伴う興奮状態にあるせいか、良い意味でも悪い意味でも活発です。どんな人も、国内のそして国際的なニュースに注意し、自分の意見をまとめ、議論し、個人的なそして社会的な生活を少しでも良くしようとがんばっていて、張り詰めた雰囲気です。
 日本に到着すると、先ず成田空港が静かでのんびりしていることに驚きますが、更に日常生活では、一般に日本人の政治への関心が低いためか、メディアに日本国内のニュース、悪く表現すればゴシップの領域に属するようなことが多く流れています。アフリカ・アジア・中東などを中心に、世界の3分の2程の人が飢えに苦しんでいることなど、殆ど話題に上がりません。キリスト教諸教会内ですら、パレスティナと言えば直ちに適格な反応が返ってくる、とはかぎりません。日本という島からは「遙かに遠い、関係ない」ところのことなのでしょう。日本という島の地政学的な位置にのみ責任があるのでしょうか。
 そして、人々は、特に若い人は、あまり元気がないようです。何か閉塞感があって、出口がない、突破口が見つからない、という愚痴を聞かされることが多いのです。小さな島国の中で、「物」は何もかも十分揃っていて、もう頭打ちです。景気が悪い、もっと消費してくれというかけ声を政府が掛けても、このうえ何を買えというのかと、途方にくれる思いなのではないでしょうか。原発反対! と叫びながら電気も水も浪費し、食料品は食べるのと捨てるのとが同じ量かも、という状態です。失業などで生活が不安にあれば、尚更です。元気はなかなか出ません。

酸欠状態の日本

 私たち日本人は「井の中の蛙、大海を知らず」なのでしょうか。次のようなイメージは如何ですか。「狭く深い井戸の底に、蛙が座っている。外の海は荒れていて、難破しそうな人々が助けを求めている。蛙は、細く長い竹の棒を井戸の上に向かって延ばす。先には大きな金額の小切手が付けてある。『このお金をあげるから、自分で何とかしておくれ』と蛙は言う」井戸の底に独りで座り込み、自分しか見えないので自分を大袈裟に受け取り、自分のことばかり考えている姿には、希望は感じにくいのではないでしょうか。
 現代は希望を抱きにくい時代です。どこを見ても問題があり、世界には悲惨な状況が増殖し続けています。できるだけ外を見ないで、自分の小さな世界に閉じ籠もりたいと思う人が増えています。小さな世界、井戸の底で、私たちは皆、酸欠状態で勇気を失っているのでしょうか。

命としての希望

 希望とは何でしょうか。未来に良かれと願い、自分の生活に喜びを求めるには、人間共同体の良い在り方、周囲の人々との喜ばしい関係が、必要ではないでしょうか。希望には、目を周囲に向かって開き、両手も心も自分の外に向かって伸べている姿が自然です。人々と共に、病んでいる自然と人間共同体が癒しのために少しずつ働き、何かが少しずつ良くなって行く実感の中で、希望が自ずから心に湧き上がって来るのではないでしょうか。「独りでは何もできない」とか、「この程度のことをしたって何の役に立つのか」と言わずに、同じように小さな一人ひとりが、あちらこちらで少しずつ小さいことを懸命にしては、その結果を蓄積しているのだ、と信じるのが現代の信仰、そのような人々のネットワークが現代の信仰共同体だ、と考えてはどうでしょうか。
 パウロは「望み得ないときに、なお、望む」と言いました。ナザレの人イエスの生と死をその身に負い、イエスに従う努力は、あたかも失敗であるかのように思えたのです。しかし、イエスは常に彼の行く手にあって招き続ける。
 希望とは、抑えようとしても抑えられない力、自ずからダイナミックに進み続ける歩み、命に満ちた成長、そして命そのものなのです。
     (おわり)


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