逝去者のために祈る

司祭アンデレ 中村 豊

 聖ミカエル大聖堂では毎朝の聖餐式で、教区内各教会で逝去された聖職者・信徒のために祈りが献げられます。日本聖公会広しといえども、わたしの知る限り主教座聖堂でこれを守り続けているのは神戸教区だけでしょう。その礼拝に毎朝連なり、継続のためその一端を担うことは、大聖堂内に居住する聖職の義務であり大きな喜びでもあります。

安らかに憩う
 遺族の方がこの聖餐式に出席された時とか代祷で名前が呼びあげられる時、関係が深かった方々が思い出され、一瞬、亡くなった時の様子とかその人のことなどが頭に浮かぶことがしばしばあります。
 再度山の修法ヶ原には外国人墓地があります。納骨や記念式のため時々訪れますが、「RIP」という文字が刻まれている墓碑銘をよく見かけます。英語で「rest in peace」ラテン語も同じく「requiescat in pace」の略で「安らかに憩う(眠る)ことができますように」(祈祷書358頁)という意味です。この言葉は、現行祈祷書葬送式文「告別の祈り」の最後に唱える3つの祈りの一つにあり、それを唱えるかどうかは司式者の裁量に委ねられています。改訂前の文語祈祷書には葬送式中の葬祷、告別、埋葬の最後に必ずこの祈りを唱えるように指示されておりますから、口語祈祷書でこのようなかたちに変えたのは祈祷書改正委員のある種の神学的意図がうかがわれます。
 伝統的にプロテスタント教会では、この世を去ると同時に、その人は救われているか、滅んでいるかどっちかであり、従ってこの人たちが安らかに神さまのもとで憩われますようにという祈りは意味をもたない、といいます。ではどうしてカトリック教会や聖公会の一部では、亡くなった方々が安らかに憩うようにと、祈るのでしょうか。

煉獄とは
 「かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」と聖パウロはコリント人への手紙1の3章で述べていますが、「火の中をくぐり抜けて」とは、キリストを信じる者が完全に救われるために、その前に火によって試され、浄化されなければならない。その浄化の場所が「煉獄」ということになります。
 人は色々な状態で人はこの世を去る時を迎えます。ルカ福音書16章で明らかにされているように、ここに描かれている、からだ中できものでおおわれたラザロは、金持ちの家からでる残飯で生き延びていました。このできものを野良犬がなめていましたが、犬を追い払うことも出来ないほど体が衰弱してしまったラザロは悲惨な人生を送り最期を迎えました。一方、その家の金持ちといえばこの世では贅沢三昧し、心おきなく世を去りました。ところが死後両者の立場が逆転し、ラザロはアブラハムのふところに連れて行かれ、金持ちは炎の中でもだえ苦しむのです。
 この金持ちのように、生前色々な罪を犯したけれども、それを償うことなしに去った人たちが、償いをする場所が煉獄、といっていいとおもいます。「最後の審判のときまで悔い改めは可能であり、最後の完成に到達したことを称して『憩う』と表現する」、このようにアレキサンドリアのクレメンスは説いています。

共に手を携えて
 この世にあってわたしたちはしばしば過ちを犯します。様々な試練にあい、絶望や失意のどん底に落とされたとき信仰を見失ってしまい、神のことを忘れたような生活を送ってしまいます。逮捕される前、主イエスは自分を裏切るであろうペテロのために「信仰が無くならないように」祈り続けていました。わたしたちもお互いに、御心にかなった生活が送れるよう祈らなければなりません。亡くなられた人たちに対しても同様です。その祈りは、終末の時、わたしだけが抜け駆けして入るのではなく、共に手をとりあって神の国に入るためにも必要なのです。


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