初めに言があった

司祭パウロ 上原 信幸

「朝食は王様のように、昼食は王子様のように、夕食は貧者のように」
 冒頭の格言に目を引かれて、初めて息子の学校給食だより(給食こんだて表)を読みました。
 冬至に一番近い給食では、カボチャのそぼろあんかけなど、昔からの食習慣に配慮がしてあり、なるほど王子様の食事をいただいているわけだと、納得しました。
記事の中に、朝食を一人で食べる子の割合が、10年間で10%増えたという資料があり、「孤食では食欲もわずか、栄養もかたよりがちになるが、家族で一緒に食べる食卓は、子どもの心を明るく強いものに発達させることになる」とありました。
最も親密な人間関係である親子間ですら、朝からコミュニケーション不足でスタートしており、教育現場でも繰り返しその改善を訴えているようです。
子どもが、親とのコミュニケーションを断って好き勝手なことをし始めると、とんでもない大怪我をします。自分だけの世界に入り込み、家族・友人にも危害を及ぼすケースもあります。
 それは、ただ年齢的に小さな子どもだけではなく、どの世代の人間にも言えることでしょう。

 神様のコミュニケーション
「初めに言があった」 これはヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。 もちろんこの「言」という文字で現されている方こそ、救い主キリストなのですが、わざわざ「言」という難しい単語を選んでいます。
「ことば」という語の響きは、どうかすると、実体をともなわない薄っぺらなものという印象を受けがちです。「言葉」と書けば、まさに葉っぱだけで、果実を伴わないむなしいものという響があります。
ゲーテのファウストの中で、ファウスト教授は、うつろな心を満たすために、ヨハネによる福音書を訳そうと試みますが、最初の「言葉」でつかえてしまい、もっと納得できる語に置き換えようと苦心します。
しかし、聖ヨハネが伝えようとした「言」というのは、世界を創り出し、また、人間を救いだそうとする神様の意志と、その神様の思いを人に伝える、事実を伴った神様のコミュニケーションではないかと思います。
「万物は言によって成った」 つまり、言とは口から発せられては消えて行く、単なる音ではなく、すべてを創り出す源であり、人間を照らす光であると聖ヨハネは続けています。
神様は、私たちが理解しやすい形で道を示し、救いを与え、その思いを伝えようとされました。
そのひとつひとつが、御子の誕生の出来事であり、また受難、復活、聖霊の降臨による教会の誕生でした。
ただ、「親の心、子知らず」というとおり、神様が伝えようとすることを、自分だけの世界に入り込んだ人間は、きちんと受け止めることができませんでした。
 それにも関わらず、常にコミュニケーションを取ろうと「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録)
と語りかけられます。
私たちが迎えようとするクリスマスは、2千年前に起った出来事をただ懐かしむだけの、過去の記念ではなく、今も尚、私たちが主に導かれ続けていることへの感謝の祭りであり、また、主が再び来られることを待つ、希望の祭りでもあります。


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