聖メアリ教会での2つの出来事

司祭アンデレ 中村 豊

 英国オックスフォードの目抜き通り、ハイ・ストリートに聖メアリ教会があります。オックスフォード大学の付属教会としてメゾジスト教会設立者ジョン・ウエスレーやオックスフォード運動を指導したキーブルやニューマンがこの礼拝堂の説教壇から有名な説教をしたところでもあります。これに加え2つ、忘れてはならない事件が礼拝堂で起きました。

最後に転向を拒否したクランマー

 その一つは1549年、イギリスで最初に自国語祈祷書を作成したカンタベリー大主教、トーマス・クランマーのことです。エドワード6世亡きあと、カトリックを信仰するメアリ女王が登位しますと大粛正が開始され、イギリス国教会の信仰を保持するクランマーは逮捕されその聖職位も略奪されて、死刑の判決が下されました。1556年3月、クランマーの処刑の日、大主教は聖メアリ教会説教台真向かいの柱のそばに立たされました。メアリ女王の意を受けたイートン校校長コールは、クランマーがどれだけ死に値するかを説教で述べたてます。説教が終わり、すでに6回転向声明文に署名しておりましたが、最後の転向声明をその場所から会衆に向かって読み上げる手はずになっておりました。予定通り大主教は声明文を力無く読み上げましたが突然、文にないことを語り出したのです。これまで6回にわたって転向声明文に署名してきたのは、死に対する恐怖によるものであって、自分は良心に反して真理を否定したのであると述べ、最後に「わたしの心に反して、わたしの手は転向声明文に署名したのであるから、まずその手が罰せられるべきである」と叫んだのです。あわてた獄吏によって聖堂から引きずり出されたクランマーは木にくくりつけられ、薪に火がつけられました。燃えさかる炎の中、クランマーは右手を差し出して「この手がわたしをつまずかせたのだ」と絶叫し67年の生涯を終えました。
 
カトリックに忠誠を尽くす

 もう一つはエドムンド・キャピョン(Campion,St Edmund)に関わることです。クランマー処刑の2年後メアリ女王が逝去しエリザベス1世が即位、今度はカトリックが弾圧の対象になったのです。キャピョンはオックスフォード大学セント・ジョン・カレッジを優秀の成績で卒業し、引き続き母校で教鞭をとっておりました。心の中ではカトリックの信仰を守っていましたが、親しいイギリス国教会主教のすすめもあり執事に按手されました。しかし良心の呵責に耐えきれず国外に逃亡しカトリックに転会、イエズス会に入会して司祭となりました。12年後、イギリスへの最初のイエズス会宣教師として商人を装いイギリスに潜入しました。それから10年間、迫害の中でも信仰を守るよう国内のカトリック信者を励まし、密かに本を出版して、イギリス国教会の異端と離教に対し、どれだけカトリックが正しいかを主張しました。聖ペテロ日、オックスフォード大学聖メアリ教会の会衆席に、その本が300冊も置かれているのが発見され、それがもとで逮捕されます。裁判の時「女王を認めないから国賊である」という主張に対して、「女王は国の首であることは認めるが教会の首はローマ教皇である」との主張を曲げず、死刑に処せられたのです。
 メアリ女王の在位は3年でしたが、短期間で多くの人間を葬り去りました。ほぼ同数の人間をエリザベス1世は45年間かけて抹殺したのです。オックスフォード、聖メアリ教会のホームページを見ますとメアリ女王のことをわざわざ括弧付きで「ブラディー・メアリ(血に飢えたメアリ)」と記しています。一方、エドムンド・キャピョンの生涯を記しているある本では、「(カトリック)教会に対する忠実はキリストに対する忠実であることを、この殉教者たちの模範によって学びましょう」と述べております。
 両者とも、短期間で君主が入れ替わることにより、その君主が統治する国家に対する忠誠と神に対する忠誠が異なり、惨劇をうんだといえます。ちなみに、イギリスにおいてプロテスタントの信仰が認められたのは1687年、カトリックはもっと遅く、エリザベス1世がカトリック教会から破門された1570年から数えて実に約250年後、1829年のことです。
 私たちはまもなく2004年を迎えます。この年も多くの出来事がこの年待ち受けており、多くの決断を強いられることでしょう。求められるのは、時代の波に翻弄されることなく保たれる神への忠誠であります。

 


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