わたしの羊を養いなさい

司祭 ラルフ・マーチン(聖使修士会)
わたしの羊を養いなさい

 短い3つの単語で表現されている主イエスのこの命令は、主イエスの私たちに対する全ての命令と同じように、それを理解するのは簡潔で易しいものです。ところが、人びとに対して初めてそれが語られたその日を思い出すとき、皆さんもうなずいてくださると思うのですが、この言葉は私たちそれぞれにも直接向けられるものであり、もちろん、新主教に対してもそうであります。
 主イエスのこの命令は復活後昇天までの早い時期に語られたものです。それは本日のように、復活節半ばくらいといっていいでしょう。夜の漁に疲れ朝、戻ってきた浜辺で主イエスご自身がパンと魚の食事が用意されていたとき、この言葉が発せられたのです。今朝、主イエスは私たちを祭壇の周りに集められ、ご自身のパンを裂き、魚が捕れず落胆してい使徒たちの心を励ますためと同様、そのような思いを持つ私たちにもぶどう酒を注がれるのです。
 使徒たちの指導者と呼ばれたペテロに特別にこの言葉が語られます。それは同時に、キリストの教会に主教として召し出された新しい指導者に語られている言葉なのです。
 その日の朝だけではなく、教会がその命を与えられた最初の朝、主はもはや肉体的には使徒と共にいないけれども主の霊と力が使徒の心に宿っている今までとは全く異なった朝、この言葉は語られました。その朝は教会が新たに成長する時、好奇心に満たされ、驚きの時であり、神戸教区にとっては新たな生命の幕開けの時なのです。 
 この日、復活の主イエスがペテロに命じられたこの指示「わたしの羊を養いなさい」は、神戸教区の新主教に対する教示でもあり、私たち全てはその「羊であれ」ということになるのです。
 私は数年間、南アフリカ・レソトの聖使修士会修道院で働きました。高速道路を走っておりますと、羊飼いがどのような仕事をしているかをよく観察できます。レソトの羊飼いは常に小さな少年で、使い古しのブランケットを肩に覆い、毛の帽子を頭にかぶり、杖を横に傾けて道路近くに立っております。その周りに10数匹の牛や羊が群れております。羊飼いは非常に若いのです。しかし、重要な仕事を担っています。家の経済を支え、蓄えをする。生きていくのに必要な保証は羊飼いの手中にあり、失敗は許されないのです。
 レソトの羊飼いは羊飼いとは何かを教えております。
 少年羊飼いの最初の仕事は朝羊たちを集め、一日中群れを離れさせないようにすることです。また、高速道路に入らないよう、谷に落ちないよう、背の高い草の中に入らないように群れの中にあって見張っているのです。羊飼いは羊を必要としており、羊は羊飼いを必要としている。羊の群れは羊飼いなくしては長い間生命を維持することはできません。羊飼いは羊を共に集め一人ひとりに対する愛によって羊たちを包み込みます。それは感傷的な愛ではありません。羊たちの利益と幸せな生活のために、羊飼いはそうするのです。羊飼いは名前によって一人一人を知っており、その性格、要求、危険を熟知しています。羊飼いの羊たちに対する愛によって、信頼を勝ち取るのです。ですから羊飼いが行くところどこでも従うのです。私たちを愛している人びとに耳を傾け、自発的にその人たちに従うのと同じです。
 新主教の最初の仕事は、神戸教区に属する人たちを集め、一致の絆で結びつけることです。一人ひとりに対する愛によってその業がなされるのです。教区の人たちの利益と幸せな生活のために、主教は存在するのです。主教の日々の生活は羊に注がれ、主教は自身の羊から学び、それぞれの名前でその人たちを知るのです。羊がもつ最近の問題、様々な危惧や好機を主教は承知しています。戦争やテロを引き起こす21世紀初頭、主教は、キリスト者、日本人、世界市民であることの意味とは何かを識別するのです。主教の配慮と謙遜によって、人びとの愛と信頼を勝ち取るのです。
 反逆する者を服従させるための矯正道具として、新主教は昨日牧杖を与えられたのではありません。この杖は倒れてしまった人たちを立ち上がらせる具として用いられるのです。従って愛のよって生きようとする新主教の最初の仕事は神戸教区のみならず、全世界聖公会に属する人たちを結びつけ、交わりを固く保たせることです。信仰者の交わりにおける一致は聖ペテロの時代の再現で終わりのときに至るまで続き、今でも世界中至るところで成長し拡がっているのです。
 羊の中に立ち続け、群れを維持するだけがレソトの少年羊飼いの仕事ではありません。そこには第二の仕事があります。少年羊飼いは新鮮な牧草地に羊たちを導かねばならないのです。そのために羊飼いが必要とされているのです。それは群れの死活問題です。羊飼いは青草はどこにあるのか、遙か彼方を一点だけではなく広い視野でながめ、たとえ今まで行ったことのないところであっても、あるいは、途中の道に少しの危険が横たわっていても、目標めざして羊を導きます。レソトでは夏の数ヶ月、羊飼いは細く石ころだらけの道を丘の頂上まで羊を導きます。この時期、そこにしか草が生えていないからです。青草とは、羊の新しい人生を意味します。羊飼いの仕事は羊を新しい人生へと常に導くことです。羊飼いはそれを信仰によって行うのです。羊飼いは危険を恐れません。危険をも担うことができるのです。羊飼いは神に信頼を置いているからです。
 主教も同様です。主教は一致の中心に置かれているだけではなく、私たちを新しい牧草地、しかも今まで行ったこともない牧草地に導きます。その旅路に様々な危険が横たわっていても、もろともしません。なぜなら新しい牧草地は群れの新たな成長と人生を約束するからです。主教は群れの境界線の遙か彼方を見ます。脱現代化へと進む、引き裂かれた世界を神の国のしるし、あるいは世俗都市の裂け目から漏れる光を神の栄光の最初のしるしとして理解します。主教は、主が一つの群れになるように望んでもいまだに囲いに入っていない他の羊にも目を注ぎます。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、この世にあって一つの群れになるのです。
 主教は人びとを新しい牧草地、新しいいのちへと導きます。そこで人びとは満ち足り、力強く成長します。このような業は少年羊飼いの恐れをものともしない信仰、生ける神の確固たる信頼に基づくものなのです。
「わたしの羊を養いなさい」。この聖句の意味の一つは、あなたの愛によって一致へと人びとを集わせることができ、あなたの信仰によって人びとを新しい命へと導き出すことができる、ということなのです。
 次に述べる文章は聖使修士会規則の一部ですが、聖ペテロの時代のみならず中村新主教にも適用できるものだと思います。
「もしもあなたがより高度で、霊的な任務に召されたならば、あなたは恐れ、震えおののくことでしょう。自分にはそのような力量は備わっていないとして、それを拒否することは許されません。自分の弱さに比べれば神がいかに力強いかを肝に銘じなさい。」


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