恵みの時、救いの時

主教 アンデレ中村 豊

 主教巡錫のため日曜日の朝、ホテルで朝食をとっていたときのことです。隣の中年女性はすでに食事を終えているにも拘わらず何かを待っている様子でした。

遅 い!
給仕係がお茶を運んできますと突然怒りだし、「お茶のお代わりを頼んだのにどれだけ待たせるつもりなんですか」との捨てぜりふをはき席を立って出ていってしまいました。11月の土曜日、当教会で午後2時より結婚式がありましたが、1時前に食事に出かけました。生憎土曜日で近くのレストラン、食堂はほとんど定休日の看板がぶら下がっておりましたが、喫茶店が目に入りました。なかには7,8名お客さんがいたでしょうか。さっそくスパゲッティー定食を頼みました。土曜日なので従業員が手薄だったのでしょうか、20分経っても食事がこないのです。30分過ぎますとさすがに結婚式の時間が気になりだしいらいらしてきます。店を代えるわけにもいかずただただ待つのみです。45分経ってようやく食事にありつけたのでした。3分で平らげ、「時間がありませんのでコーヒーはもう結構です。幾らでしょうか」と言いますと、喫茶店の主人は平身低頭して詫びるばかりです。こう言ったわたしの声はきっとギスギスしており、顔は鬼みたいだったことが想像されます。ところが遅れたことで幸運に恵まれるときもあるのです。

「ヨン様」のおかげ
 先日韓国、太田を訪れましたが、帰りに乗ったバスは飛行機出発約1時間前に仁川空港に到着しました。通常国際線では2時間前のチェックインが常識です。カウンターで搭乗手続きをしますと、「お客様申し訳ありませんがエコノミーは満席となっております。つきましてはファーストクラスで宜しいでしょうか」との要請です。「それでは次の便にしてください」と誰が言いましょう。「ヨン様」に感謝しジャンボジェット機の二階にあがりますと豪華でゆったりした席がわたしたちのために用意されています。エコノミークラスとは雲泥の差の、誠に豪華な食事とお酒が振る舞われました。問題は椅子で、これが全て電動仕様になっているのです。実は生まれて初めてのファーストクラスだったのですがこういう場合、「わたしは常連客ですよ」という振りをしなければという気持ちになってしまいます。椅子には足置きが設置されているのですが、通路を隔てた隣のお客さんはそれを使用し悠然と新聞を読んでいます。それを横目でちらちらと見ながら、何とかして足置きを椅子の下から引き出すことに成功。ところが、リクライニングを戻す指示が出されたのですが、いくら操作してもシートは戻らないのです。これはきっと機械の故障に違いないと思い客室乗務員に、「これどうしも動きません。壊れているのではないでしょうか」「お客さま、今押した右端のボタンではなく一番左のボタンを押して下さい」。客室乗務員はわたしがファーストクラスは初めてであることを最初から知っていたようです。

時の用い方
 「日常をきちっとやるということは、例えば10年なら10年、きっちり積み重ねていくと日常というのは『真実(true)』と『事実(fact)』に分ければ、『真実』のほうじゃなくて『事実』のほうに入りますね。『事実』の連続であって『事実』というのは足し算であって、100年『事実』を重ねても何事も出ないかもわかりませんが、しかしながら、『事実』を重ねることによって、『真実』が一滴ほど10年先に出るかもわからない。」
 このように司馬遼太郎氏は言いますが、2005年も今までの年と同じ時の連続でしょうか。日めくりカレンダーのように機械的に1日、10日、1ヶ月を、時の流れるまま身を任せて何となく過ごすのでしょうか。あるいは、ある時を特別な時として認識するのでしょうか。
 聖堂や自分の部屋での祈り、友との楽しい語らい、すばらしい音楽や食事、サッカーや野球の熱狂などは、時を忘れさせてくれます。「神の国」はきっとこのような時を提供してくれる場所であることを確信したいものです。
 人間関係や物質的な問題にさいなむ時、一日も早くこれが解決されることを願います。このような時こそ「神の国」を仰ぎ見ることが求められます。わたしたちを鍛えるために神さまが与えられた試練として受けとめる姿勢が必要なのです。


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