神の決意表明

司祭 ヨハネ 芳我秀一
 

諺に「一年の計は元旦にあり」があります。これは、何事も始めが肝心であることのたとえで、特に、その年の計画は最初の一月一日に立てるのがよいということから、この諺が生まれました。そこで、私たちも年の始めにあたり、聖書を通して語られる神様の御心をしっかりと受けとめて第一歩を踏み出しましょう。

  〈名前の由来〉
 一月一日は教会のカレンダーによれば「主イエス命名の日」という祝日です。救い主があのベツレヘムの家畜小屋で誕生してから八日目に「イエス」と言う名前が付けられました。
『八日たって割礼の日を迎えた時、幼子はイエスと名付けられた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である。』(ルカによる福音書第2章21節)
 一般に名前には意味が込められており、付ける者の願望や決意が反映するものです。たとえば、私の名前は「秀一」ですが、おそらく両親は私に優秀な人になって欲しいという期待を込めて付けた名前だと思います。付けられる子供にとっては時々迷惑に感じる時もありますが、親としては当然かもしれません。  さてイエス様の場合ですが、『胎内に宿る前に天使から示された名』とあるように、名付け親はヨセフでもマリアでもありません。天におられる父なる神様でありました。父なる神様の強い意志あるいは願望がこのイエスという名前には込められているということです。それではどのような意味が込められているのでしょうか。「イエス」とは「神(ヤハウエ)は救い」という意味で、父なる神様は御子をこの世界に遣わすことによって、全ての人々をなんとしてでも救いたいという強い意志・願望を示されたのです。

  〈救いと十字架〉
 人間は誰しも自分本位に生きようとします。無意識のうちに神を離れて自分本位に生きようとする時、人は永遠なる神との信頼関係を壊してしまいます。これが罪であり滅びです。ところで旧約の時代、ユダヤ人たちは律法を破ることが罪を犯すことで、自分に罪の自覚がないにしろ毎年神殿に詣でて動物を贖いの供え物として神に献げました。この行為によって罪が赦され、神様との信頼関係を回復することができると考えていました。この伝統に従って、イエス様はただ一度だけ、世界中の全ての人々の罪の赦しのために自らを贖いの供え物として十字架上で献げられたのです。これによって現代に生きる私たちも罪を自覚する時、復活のキリストとの出会いを通して赦しが与えられるのです。そして再び永遠なるキリストと教会との信頼関係の中に生かされる救いの喜びを経験するのです。

  〈暗闇に輝く光〉   
 現在は世界の至る所で戦争やテロ、争いが絶えることはなく、また国内でも様々な不正が横行してますます絶望と暗闇がこの世界を覆い尽くそうとしています。しかし、このような時代であっても神は着々とイエス・キリストを通して赦しと救いの業を力強く行われているということです。事実、暗闇に輝く光として希望と勇気を人々に与え続けておられるのです。教会は神の決意を目に見える形で現す使命を帯びています。私たちも神様の手足となることができますように、イエス・キリストに固く結ばれて新しい年をご一緒に歩んで参りましょう。


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