生き方の問題

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 奈良のお水取りも終わり、神戸の街にも春の足音が近づいて来ました。
 去る3月10日(金)は神戸教区にとって、また神戸市にとってもすばらしい日となりました。というのは教区と関わりの深い聖ミカエル国際学校の創立60周年記念礼拝が大聖堂で執り行われたからです。当日は生徒たちや父兄をはじめ、ポール・リンチ英国総領事や学校関係者が多数参加して盛大に行われました。そして小雨の降る生憎の天気でしたが大聖堂から学校までパレードしてお祝い致しました。 現在、聖ミカエル国際学校には20数カ国から約160名の子供たちが学び生活しています。学校は将に人種のるつぼであり、国際都市神戸をよく象徴しています。言語、文化や生活習慣の違う人々が共に生きるということはとてもすばらしいことですが、60年間も続いてきたということは、そこに集う人々によって常に相互理解と信頼関係を築く努力がなされてきたという事です。

   〈バベルの塔〉
 ところで聖ミカエル国際学校とは対照的に言葉によって世界中を大混乱に陥れた旧約聖書の物語が「バベルの塔」(創世記第11章)です。この物語がいつ頃出来たのかは不明ですが、この直接的なモデルが、古代メソポタミヤの「ジックラト」という建物だと言われています。この物語の背景には、古代世界における「飛躍的な技術革新」があって、『石の代わりにレンガを、しっくいの代わりにアスファルト用いた。』と記されています。この技術革新によって人間は堅固で高い建物を造ることが可能になったのです。ですから文明や技術の発達は人間にとって肯定的だと言えますが、この物語が最も問題にしているのは、人間が新しい技術を獲得する時、最初に何をしようと考えるかということです。人間はレンガやアスファルトを用いて何をしたのか。それらを人間生活の福利のために役立てたのではなく、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう』と考えたのです。それに対して、神はこの塔のある町をご覧になり、彼らの言葉を混乱させ、言葉を聞き分けられないようにされて、彼らは世界中に散らされて町の建設は中止されたのでした。

    〈罪の現実〉      
  ここには人間の知恵の愚かさがよく現れています。この愚かな知恵はどこから生まれたのでしょうか。旧約聖書によるとアダムとエバが禁断の木の実を食べて、神様との約束、神様との信頼関係を破った時に獲得したものでした。この後、アダムとエバはエデンの園を追放され、人間の知恵と力によって生きる者になってしまったのです。その結果、人は生きる目的を失い、何をしても順調に進まなくてイライラして破滅してしまうのです。このように人間は神との信頼関係が破壊されると真の生きる目的を見失い、ただ心臓が動いているだけの「生きた屍」状態に陥ってしまいます。この状態を聖書は罪と呼ぶのです。このような人間にとって人生は思い通りにならないものですが、この思い通りにならない人生を如何に生きるのか、が現在も私たち人間に問われているのです。

    〈神の憐れみ〉     
 人間は誰しも罪深く滅び行く者ですが、にもかかわらず神はそのような私たち人間を憐れに思い心に留めて下さいます。なぜならエデンの園を追放される前に『アダムと女(エバ)に皮の衣を作って着せられた。』(創世記3章21節)と暖かい心配りを示してくださりました。つまり、神は決して人間を見捨てることはない、ということです。

 教会はすでに大斎節に入りました。大斎節はイースターを迎える準備の期間ですが、この時にじっくりと自らの罪の現実を直視しましょう。そしてこれからどのように生きて行けばよいのか、考え、祈り、そして黙想されることを勧めます。


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