美しい国、日本

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 7月29日は参議院選挙の投票日。年金、政治と金、消費税、憲法改正、生活格差の是正など国民にとっては非常に関心の高い選挙と云える。このような政治に対する関心が高まる中で、与党の掲げる「美しい国」と云う言葉に違和感を感じるのは何故だろうか。

〈清く正しく美しく〉
  イエス様の時代にも「美しい国」を作るために真面目に努力した人々がいた。それがファリサイ派と呼ばれる人々だった。彼らは紀元前2世紀頃、外国からの侵略を受け荒廃する中、国家とユダヤ人の独自性を守るために生まれた学者グループである。彼らはユダヤ人が「神の民」として相応しい人間となるために神の戒めである律法を厳守することによって清く正しく美しく生きようとした。そして、彼らは一般庶民にもその生き方を教え導くことを使命とし、その敬虔な行いによって人々から立派な先生として尊敬されていたのである。ところが、福音書では、彼らはイエス様に敵対し、十字架の死へと追い込んだ極悪人として描かれている。またイエス様も激しく彼らを非難された。彼らの生き方の何処に問題があったのだろうか。

〈ファリサイ人の欠点〉
  ファリサ派の人々は旧約聖書の『わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。』(レビ記11章44節)という御言葉から、律法厳守によって自分たちは「聖なる者」になれると自分勝手に解釈をした。そして律法を守らない人々(例えば、羊飼い、売春婦、奴隷、心身障害者、病人など)は地を這う爬虫類になぞらえて「地の民」と呼び軽蔑して一切接触しようとしなかったのである。ところが彼らが「地の民」また罪人と見なした律法を守らない人々とは、貧しさのために律法で決められた税金を払えなかったり、教育が受けられなくて律法に無知であったり、守りたくても律法を守れない状態におかれた人々であった。清く正しく美しく生きること、また生きるように人々に勧めることは結構だが、自分勝手に決めた基準に従わない人々を軽蔑し排除してしまうことに対してイエス様は激しく非難されたのである。

〈生き方の違い〉
  人が清く正しく美しく生きたいと願うのは当然である。しかし、この人間として当たり前の生き方が、皮肉にもイエス様の目には厳しい裁きになると云うことである。安倍総理が「美しい国、日本」という時、何を基準として美しい国とみなしているのか。著作によれば象徴天皇を縦糸として長い歴史と独自の文化によって築かれた国家ということであるが、問題はこれを受け入れられない人々を軽蔑し排除してはいけないと云う事である。一方、イエス様は自分勝手な基準で人を見たり判断したりされなかった。何故なら全ての人は神によって創られ愛されている者としていつも接しておられるから。


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