如己愛人

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 今年の夏、初めて長崎を訪問した。長崎と言えば浦上天主堂、平和公園、旧グラバー邸、日本26聖人殉教の地、オランダ坂などの史跡がたくさん残っている。日本最古の木造洋風建築である旧グラバー邸の一室に入った時には、幕末に海援隊を組織して活躍した坂本龍馬と仲間たちが銃器や弾薬の買い付けの商談をスコットランド出身の商人グラバーとこの部屋で行ったのではないかと想像するだけでその時代にタイムスリップしてしまった。しかし長崎の史跡に触れることは、同時にこの街が背負ってきた重い十字架の歴史に触れることでもある。

〈キリスト教と長崎〉  
  初めて浦上天主堂や原爆資料館、平和公園を訪問したが、なぜか広島の場合よりも原爆に対する強い怒りと悲しみを感じる。当時、石と煉瓦造りのロマネスク様式で東洋一と云われた浦上天主堂が爆心地からわずか500mの所にあって、この原爆のために浦上教区信徒 12000人のうち8500人が逝去。浦上一帯は焼け野が原になったと云われている。
  長崎は1567年に初めてキリスト教が伝えられ、1569年には教会も建立されて1500人程の信徒がいたと云われている。1570年にはポルトガルとの貿易港として開港され日本におけるキリスト教の中心地となった。しかし、迫害と弾圧のために1597年の日本26聖人の殉教を始めとしてこの長崎で600人以上もの人々が殉教したと云われている。さらに長崎の人々は原爆投下という二重の苦しみを背負うことになる。

〈如己堂〉
  平和公園から浦上天主堂までは500m程の距離だが、その間に如己堂と呼ばれる木造の小さな家を見つけた。ここはかつて自ら被爆しながら多くの被爆者を治療するために奔走された放射線医師の永井隆博士と二人の子どもたちの住まいだった。
  永井博士は1908年(明治41年)に松江市に誕生。やがて長崎医大を卒業後、放射線医師となり、1934年には後に妻となる森山緑姉の実家に下宿するうちに家族の影響で受洗。満州事変や日中戦争では軍医として従軍しながらも普段は大学で研究治療に当たっておられた。ところが1945年(昭和20年)6月に白血病と診断され、余命3年と宣告。当時、レントゲンのフイルムが無く直接レントゲンの画面を見ながら診断したために被爆したものだった。ところがさらなる悲劇は同年8月9日の原爆投下である。二人の子どもたちは疎開して無事だったが、爆心地近くにいた妻は即死。長崎医大も被爆したが永井博士は重傷を負いながらもすぐに被爆者の治療を開始。
  1946年11月に病状が悪化して寝たきりになるまで救護に当たられた。この時、教会の仲間たちから贈られた畳2畳ほどの小さな木造の家が如己堂である。ここで博士は寝たままで原爆による病気の研究と「長崎の鐘」や「この子をのこして」などの名著を沢山書かれて原爆の恐ろしさ、戦争のおろかさ、命と平和の大切さを訴え続けられた。永井博士の言葉。『神のみ栄のために私はうれしくてこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとく私を愛して下さるのがありがたく、この家を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。』と。
  「己の如く隣人を愛せよ」(ルカによる福音書第10章27節後半) 私たちは、既に私たちを愛し導いておられる方がおられることを知り、いつも感謝して隣人を愛する者でありたい。


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