「招かれる喜び」

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 時々、話をして欲しいとお招きを受ける機会がある。誰かが自分を必要として語りかけてくる。一人ではこの世界を生きてゆけない孤独な者にとって誰かに招かれることは嬉しいことである。

〈主の婚宴〉
  イエス様が語られた譬え話の中に「婚宴」の譬えがある。『天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。』(マタイ伝第22章2〜14節) 王は王子の婚宴のために前もって招待した人々を家来を遣わして呼びにやったが、彼らはこの招きを拒否しただけでなく、家来たちをも捕まえて乱暴し、殺してしまった。結局、王は怒って、軍隊を送って、招いた人々を滅ぼしてしまった。そして、王は善人も悪人も全ての人々をこの婚宴に招いたのである。
  つまり、王である神様は全ての人々をご自分の息子の婚宴に招いておられるということである。そして、この婚宴とはこの世界においては天国の先取りである教会の交わりであり、その中でも永遠の生命の糧を与え続ける聖餐式を指している。全ての人々は主なるキリストの主催する聖餐式に招かれている。

〈信仰の礼服〉
  ところが「婚宴」の譬えによれば招かれた客の中に婚礼の礼服を着ていない者がいて王は側近の者たちに外の暗闇にほうり出すように命じたというのである。現代の主の婚宴に招かれている私たちにとっても他人事ではない。婚宴の礼服とは何なのであろうか。 20年以上も前のことである。英国での学業を終えて帰国間近の頃、思いがけずカンタベリ−大主教主催のお茶会の招待状を受け取ったのである。初めて海外から英国に留学した聖公会の聖職と信徒は大主教主催のお茶会に招待されるとのことで、どんな礼服を着ていけばよいのか少し悩みながらアフリカやアジアの友人たちと共にランベス宮殿に参上したのである。当時のランシー大主教はその年の5月に日本聖公会組織成立百周年の行事を終えられて帰国された直後で、お会いするとポール八代(元神戸教区主教)と神戸教区の皆さんに対する感謝の言葉を述べられたのである。 カンタベリー大主教からの招きを受けたときの感謝と喜び。ましてやカンタベリーどころではない。神の子キリストがわたしたちに心を留められ招いておられるのである。果たしてわたしたちは感謝と喜びという信仰の礼服を着て主の婚宴に参上しているのだろうか、という事である。

〈招かれる者から、招く者へ〉
  9月23日には東京で日本聖公会宣教150周年記念礼拝が、カンタベリー大主教を迎えて行われる。また9月26日、27日には当大聖堂でも聖別50周年の記念行事が海外からのゲストを迎えて行われる。主はこれらの諸行事を通して私たちを招いて下さっている。日本聖公会、神戸教区それぞれが主にある家族であってわたしたちは決して独りぼっちではないことを教えてくれる。大切なことは、招かれる者から未だ神を知らない人々を招く者に変えられることである。


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