「奉仕する女性たち」

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 “夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと”有名な芭蕉の句です。かつて平泉(ひらいずみ)を拠点として東北を支配した藤原三代の栄枯盛衰(えいこせいすい)を偲(しの)ばせます。

〈わんこそば〉
 今年の夏は墓参を兼ねて平泉、盛岡、秋田と旅をしました。田園地帯が広がり自然が豊かで新鮮な空気を満喫させて頂きましたが、旅の途中、盛岡に立ち寄った時のことです。盛岡と言えば「わんこそば」。お給仕のお姐(ねえ)さんがお椀(わん)のそばが空になるや次々と「じゃんじゃん」という掛け声とともに、手元の椀に一口量のそばを放り込み、食べた椀の数を競い合う料理です。歴代最高記録は559杯だそうです。食べる方も大変でしょうが、掛け声をかけながらそばを放り込む女性たちはさらに大変だと思いました。
 かつてイエス様と弟子たちも全ての人々に神の国を宣べ伝えるためによく旅をしました。そんな彼らの食事や洗濯のお世話をして陰で支えたのが女性たちでした。 『彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。』(ルカ伝8章3節後半)マグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナと言った名前が出てきますが、彼女たちの献身的な働きがあればこそイエス様や弟子たちの華やかな伝道活動があったのです。また弟子たちは旅の途中で、十字架を前にしてイエス様を裏切り逃げてしまいましたが、彼女たちは、決してイエス様から離れませんでした。十字架に掛けられた時も遠いところからイエス様を見守り、死んだ後も香料を持って墓に行きました。何故、彼女たちはこれほどイエス様に従い続けることが出来たのでしょうか。イエス様がフェミニストだったからでしょうか。それとも、世間の男性たちの女性蔑視に耐えかね、うっぷんをはらそうとイエス様に従ったのでしょうか。

〈私は罪人の頭〉
 マグダラのマリアはイエス様から七つの悪霊を追い出してていただいた女性でした。おそらく彼女の周囲にいた人々は悪霊によって引き起こされる彼女の奇行(きこう)に恐れを抱き関わりを持とうとしなかったのではないでしょうか。彼女は誰からも見捨てられて心は飢え乾き自分と周囲の人々を傷つけていたのです。まさに罪人の頭でした。そんな愛に見放されていた彼女にイエス様は声を掛けられました。そしてイエス様を通して神の愛に触れた時、マリアの凍りついていた心が溶け始め暖かい心を取り戻したのではないでしょうか。マリアはイエス様から沢山の愛をいただき罪を赦していただきました。だからこそマリアはイエス様に沢山の愛を与え、従い続けることが出来たと云うことです。
 現在、当教会もオルターギルドやGFSの女性の皆さんが礼拝の準備や後片づけ、聖布の洗濯などをしてくださっていますが、これらのご奉仕がなければ教会は動きがとれません。イエス様から注がれる愛を感じながら奉仕をする時、どんなに人間の目にはつまらない雑用と映ってもそこには大きな喜びがあるのです。


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