「神の栄光」

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 1986年のクリスマスは英国の首都ロンドンで迎えました。冬休みで、ある信徒宅にお世話になっていたのですが、ピカデリーサーカスの近くにある聖ヤコブ教会の深夜ミサに出席させて頂きました。荘厳な石造りの礼拝堂の中で、美しい光と音楽に魅せらながら、そこは光り輝くような別世界のように感じられ、これが本場英国のクリスマスかと驚かされました。  『言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちは、その栄光を見た。』(ヨハネ伝第1章14節前半)とヨハネは御子の誕生を表現しましたが、まさに英国におけるクリスマスを通してこの世界の中で光り輝く神の栄光を見たような気持ちになりました。

〈宿ると云うこと〉
 さて、「宿る」という言葉ですが、この言葉には別に「天幕を張る」という意味があります。天幕を張ってそこに住むということです。例えば旅をして観光客としてどこかのホテルに泊まるということではありません。その土地に住む人々と一緒に生活するということです。ですから、ある時から、この世界の中に賢明で、知恵と力に満ちた方が、わたしたちの仲間として既に天幕を張って共に生活を始めて下さっているということです。わたしたちが心騒ぐとき、苦しく悲しい時、その天幕を見上げてあそこにはあの方が住んでおられるのだと確信する時、「わたしたちは、その栄光を見た」と云うことができるのです。

〈不完全なこの世界〉
 つまり、私たちは決してこの世界の中だけで生活していてはダメだと言うことです。今年の重大ニュースの一つは政権交代でしょう。長かった自民党政権に代わって民主党が政権をとりました。理想に燃えて新しい国造りが始まりましたが、既に国家予算や外交問題で挫折してしまいました。この世界は不完全で歪んでいますから、その中で不完全な人間が理想の国を造ろうと努力しても歪んだ国になってしまうのです。だから、私たちはこの世に宿られた方の天幕に目を向けるのです。

〈ぞめく心〉
 イエス様が生まれた時、天使からみ告げを受けた羊飼いたちは、ベツレヘムで御子に見(まみ)えて天使の言葉が真実であることを知りました。そして神を賛美しながら再び羊たちが待つ荒野へ帰って行きました。表面的には何の変化もなく過ぎ去っていく平凡な日常生活の背後で全ての人々を救うためにとてつもない計画が既に動き始めていることを彼らは知ってしまったのです。
 最近「ぞめく」という言葉を耳にします。「騒(ぞ)めく」とは、阿波踊りを踊ったことのある人なら判るかもしれません。太鼓やお囃子(はやし)のリズムが聞こえてくると妙に落ち着かなくなって未来が輝きだすような心の高鳴りを覚えるのです。そして自然と体が動き始めます。ひょっとしたらそんな騒(ぞ)めきを羊飼いたちは感じていたのではないでしょうか。現代世界に生きるわたしたちも神の栄光を拝しながら騒(ぞ)めく人生を歩みたいものです。


© 2009 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai