真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな

司祭 パウロ 上原信幸

 11月の声を聞くと、あちこちから収穫感謝祭のお招きを受けます。 日本では11月23日は勤労感謝の日で、もともとは新嘗祭という収穫感謝祭だったそうですが、「勤労をたっとび、生産を祝こと」を趣旨とし、戦後制定されました。
 昨今、勤労は必ずしも米や野菜といった、「目に見える産物」の収穫を伴うとは限らないので、収穫ではなく、勤労を互いに感謝するという表現になったようです。
 この日は、神戸教区の定期教区会の日でもあり、教会暦も一年の締めくくりを迎えて降臨節に入り、教会の新しい年が始まります。
 つまり、「神様と人とを喜ばせる良い行いの実を、私たちが結べるように成長しましょう」と過ごしてきた教会生活の、収穫・勤労感謝の時を迎えるわけです。

 キリスト教精神

 さて、しばしばミッションスクールの理念である「キリスト教精神に基づく保育・教育」とは何かということを、質問されることがあります。
 私は不勉強ながら、特に「キリスト教保育」という言葉は、二重のふたえのような表現だと思っています。
 というのも、戦後の保育や教育の考え方は、その根底に自由・博愛・平等といったキリスト教的な考え方があります。
 ですからキリスト教主義学校の教育と、日本の教育基本法の目標に差異をみつけるのは、大変困難だと思います。
 教育基本法に謳われている教育目標の5つは、まさに聖書の抜粋のようであり、ランベス会議でいわれる5つの宣教指針にも重なります。

  1. 真理の探究
  2. 個人の価値の尊重
  3. 男女の平等、自他の敬愛
  4. 生命・自然・環境を尊ぶ
  5. 他国の尊重、国際社会の平和

  保育=「キリスト教的な人間観、世界観に基づいた幼児へのかかわり」ということができれば、その上にもう一度「キリスト教精神に基づく」と付け加える必要がないのです。
 しかし、日本の教育というものは、もうすこし言葉を足せば「キリスト教的な人間観・世界観に基づいた子どもへのかかわり」から「神様」という考え方をとってしまったものと言わなくてはならないでしょう。
 勤労感謝の祝日の規定では、感謝する対象は、「国民互い」だけで、それ以上の考え方は入れないようになっています。

 教会の使命

 現代の収穫を取り巻く環境は、地道な勤労にもまして、投資・投機による財テクがもてはやされ、利益を優先した結果による様々な「食生活の危機」が叫ばれています。
 愛されているという実感が、社会の中で薄くなると、「なぜ自分が、他人を大切にしなくてはならないのか」という気分にもなるでしょう。
 そんな時代だからこそ、今一度「教会が何のためにこの世界に存在するのか」の意味を考え、一年の締めくくりの時を迎えたいと思います。

 「真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ。」 箴言23章23・26節


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