他の一切を損失とみています

司祭 パウロ 上原信幸

 この冬は暖かいスタートでしたが、いよいよ寒さも本番を迎えました。冬型の気圧配置が続き、寒波はしばらく居座るようです。
 天気予報で、気圧の単位としてヘクトパスカルという言葉を耳にしますが、物理学者・数学者であったパスカルに由来します。
 彼は熱心なクリスチャンとして知られており、次のような祈りを残しています。
「天の父よ、私は健康をも病気をも願い求めません。また生をも死をも願い求めません。
 ただ私が願うことは、あなたが私の健康や私の病気を、また私の生や死を、あなたの名誉と私の救いのために意のままに用いてくださることです。
 あなただけが、私にとって何が益であるかをごぞんじです。あなただけが主でありたまいます。どうかお望みどおりのことをなさってください。どうか私に与え、また私からとりさってください。
 ただ、私の意志をあなたのご意志と等しくしてください。」

  大 斎 節

 今月から大斎節に入りますが私たちは、自分に打ち勝ち(克己)、イエス様にならうということに努めるわけですが、自分に打ち勝つといっても、いわゆる修行、荒行によって自らを清め、浄化していくわけではありません。
 もし、私たちが自力で救いに至る力があれば、救い主など必要はないのです。そうではないからこそ、神様は、私たちのために救い主をこの世界に送ってくださったのです。
 克己というものが、単に自分に磨きをかけるだけであれば、不完全な「私」というものを後生大事に保つだけになります。

  克 己

 普段、私たちは反省する・振り返るといった時、それを通していかに自分を生かすか、自分を伸ばすかを考えます。
しかし、私たちが歩む大斎節中の歩みは、自分の行ないたいと思う「修練の道」「修行の道」を自分が欲するままに、一人気高く歩むのではなく、「私に従いなさい」というイエス様にならおうとする歩みです。
 それは、私たちを高める歩みではなく、低くする歩み。完成させる歩みではなく、捨てる歩みであるということです。
 聖書にしばしば出てくる、徳を高める。完全なものとなるといった歩みとは、全く違う歩みのようでありながら、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」とイエス様が教えられたように、捨てる者が得て、低くする者が高められるということを、今一度覚えたいと思います。様々な我欲を捨て、神様の思いと、私たちの思いが同じ方向を向くことができるようにと祈ります。
      
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
  フィリピの信徒への手紙
         8章8〜9節


© 2009 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai