片手になっても命にあずかる方がよい

司祭 パウロ 上原信幸

 「もし片方の手や足や目が、あなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよいのだ。」
 これはイエス様の教えの中でも、かなり厳しいものです。
 もちろん、手や足自体が人間を悪に導くわけではありませんから、ものの例えなのですが、「大切なものを犠牲にしてでも、守らなくてはならないものがある」というのが、その教えです。
 今わたしたちは猛暑の夏から、収穫の秋を迎えようとしています。 9月29日の聖ミカエル日は北欧では収穫感謝祭としての位置づけが強いものでした。
 たくさん種を蒔けば、たくさん育って、たくさん実る。 あたりまえの話ですが、限られた収穫の中でたくさん蒔こうと思えば、それだけ、売ったり食べたりする分を減らさなくてはなりません。種を蒔くということは、それを食べることもできるし、売ってお金にすることもできる財産を、土の中に捨てなくてはならないということです。
 もちろん我々は種が、新しい実りをもたらしてくれることを知っているので、捨てるとは言わず「蒔く」というのですが。
 自然の世界も、人の世界も同じで、明日のためには、今もっているものへの執着を捨てなくてはならないし、忍耐も必要です。

 喪 失

 種を蒔くと、土の中に隠れて見えなくなる。そしてしばらくは何の音沙汰もない。心配になって毎日掘り返し、ちゃんと種があることを確認しないと安心できない!という人はいないでしょう。
 むしろいつまでも種のままであるほうが問題で、きちんと芽を出し、根を出して、種の形が無くなってくれないと、なんのために蒔いたかわからなくなります。
 しかし、種は財産ですから、それがいつまでも蔵の中にあること、変化しないことに安心していることや、今あるものに執着して手放そうとしないことは、わたしたちの生活ではよくあることです。

 克 服

 私たちの手や足のように大切なものが私たちを罪に誘惑する道具になりうるということだと思います。
 執着心は、すべてをだいなしにし、豊かな実りを得ることができないというのがイエス様の教えです。
 ことに、「わたしを信じる小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と、弱いもの、小さなものへの配慮も強調されます。今、世界では1分間に20人近い人が、飢えが原因で命を失っているのがこの世界の現実です。
 もし、神様の造られた自然界で、執着心を持ち続ければ、すぐに困ってしまう。自然の中では納得できても、生活の中ではなかなか納得できないのも事実です。
 収穫の秋ですが、今あるものに執着するのではなく、明日への希望に満たされて、新しいことへのスタートを切る時にできればと思います。


2012 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai