希望は私たちを欺くことはありません

司祭 パウロ 上原信幸

 あちこちで桜まつりが行われ、華やかな4月となりました。
 2千年前のエルサレムでも、ちょうど祭りの時期で、エジプトの国で奴隷だったユダヤ人が解放され自由となり、自分たちの国へと出発した出エジプト(エクソドス)の記念祭が行われていました。
 お祭りの宴会をするのですが、花見の料理とちがって、きまったメニューがありました。
 パンと羊の肉と葡萄酒の他に、奴隷だった苦しさを忘れないために、苦菜と呼ばれる野菜に、干した果物やナッツをすりつぶしたハロセスという泥に似たドレッシングつけて食べていました。泥の中で働いた苦しさ、にがさを忘れないためです。
 酵母を入れていない固いパンも食べます。まるで新しい生活への固い意志のようです。
 ただ、この時代はエジプトからの支配からは抜けだしましたが、今度はローマに支配されていました。人々はその苦しい生活から抜け出す(エクソドス)ために新しいリーダーを待ち望んでいました。
 王様や貴族は、中央のローマと同盟を結んで、自分の利益を守るのが第一ですので、全くあてになりません。

 春の日の出来事

 バラバというタカ派のリーダーが人気を集めていましたが、ローマに捕まっていました。
 一週間前にガリラヤ湖に近いナザレ出身のイエスという人物が、首都であるエルサレムにやってきました。病気の人を癒し、多くの人に食事を与えたらしい。福祉の面にも実績があるようだ。
 この人がリーダーになってくれれば自分たちの生活は一変するぞ、そんな期待もあって、イエス様が歩く道筋には多くの支援者があつまってきました。
 弟子達は思ったことでしょう。「故郷ガリラヤでの地盤もしっかりしている。サマリヤでも大歓迎された。男達ばかりか、女性たちの支持者は多い。そして、この都市部でも多くの人に支援されている。この祭りの時期こそ、イエス様が新しいユダヤのリーダーとなる良い機会だ。」
 ところが支配者にとっては目障りなので、支援する人達がいない夜の間に捕まえて、自分たちの支援者で固めた集会の中で、過激派だ、テロリストだ。という無実の罪を着せました。
 弟子達は夜、支援者のいないときに襲われたのですが、戦う気は満々でした。ちょうど明智光秀に裏切られた織田信長の共の侍たちのように。ところが、イエス様が武器を捨てなさいとおっしゃったので、戦うこともできず、逃げ出します。 
 イエス様が十字架につけられた時も、弟子達は逃げたままで、お葬式もできずに埋葬しました。
 あらためて告別をしに来たのは、最初の頃から支援してくれた女性達だけであったと福音書には書いてあります。

 絶望から希望へ

 弟子達は思っていたことでしょう。イエス様は負けてしまった。やはり力が正義で、イエス様が仰っていたようなことは、この世の中では通用しないのだ。
 受けるよりは与える方が幸いだったり、神様は身分に関係なく、すべての人間のおとうさんのような方だったり、疲れたもの全てを休ませてくださる方。思い悩むな。人を裁くな。敵を愛しなさい。あなたがたは世の光であると教えてくださったけれど、すべては通用しないのだ・・・と。
 しかし、弟子達の想像を大きく超えた形で、彼らに希望が与えられたのが、復活日の朝でした。
 失望と不安で一杯であった人々は、イエス様と出会い驚きと喜びで満たされました。

 私たちの願いや予想を超えた形で、神様は私たちに恵みをくださる。そのような希望を持ちながら復活節を過ごすことが出来たらと思います。

2013 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai