聖霊降臨日

司祭 パウロ 瀬山公一

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたが赦せば、その罪は赦される。」
(ヨハネによる福音書20章22・23節)

  創世記の天地創造の初めに「神の霊が水の面を動いていた」とあります。また神は「命の息を吹き入れられた」ともあります。聖霊は、そよ風や嵐などのように、見えないけれども感じることができるものとして表わすことがあります。風が吹くと波が立ち、枝が揺れ、木の葉が舞い、止まっていたものに動きが与えられます。聖霊は風のように、物事や人々が動かされることで感じられることがあります。

 イエスが洗礼を受けられた時に神の霊が鳩のように降ってきたとあります。そしてその後すぐに断食するために荒れ野へと向かわれるのですが、その時のことを、マタイ福音書は「霊に導かれ」、マルコ福音書は「霊はイエスを荒れ野に送り出した」、ルカ福音書は「霊によって引き回され」と記しています。導くというのは、前を先導してくれるようで、送り出すというのは、背中を優しく押してくれるような感じですが、引き回すというのは、強制的につれて行かれる感じがします。時にはわたしたちが拒否したいようなこともありますが、それが神の御心ならば、引き回されることもあります。自分の意志に反することをしなければならない時もあります。イエスはペトロに「サタン引き下がれ。あなたは……神のことを思わず、人間のことを思っている」と言って叱られます。

聖霊降臨日の出来事、つまり聖霊が降り弟子たちが聖霊に満たされたときのことです。使徒言行録には、炎のような舌が一人一人の上にとどまった、と記されています。霊は風のように動くとも言いましたが、ここでは留まったとあります。いつも動き回っているのではなく、わたしたちの内に留まってくださるのも聖霊です。洗礼によって聖霊が与えられ、留まってくれているのです。自分を強く主張する時には、神の力は働きにくくなります。自分のうちに神の霊がとどまっているなら、自分を主張する必要はありません。

 ヨハネ福音書に登場するサマリアの女は、ゲリジム山の神殿とエルサレムの神殿とを比べて、どちらで礼拝すべきか、つまりどちらに神はおられるのかと尋ねます。イエスはどちらでもないと言われ「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と教えられました。山の上でも、野原でも、どこにでもおられるのであり、どんなところでも、どんな時でも唯一の神にキリストのみ名によって祈ることはできます。自分の思いを神に向けることができるならどこでもいいのです。ただ教会の礼拝堂が、一番落ち着いて祈りを献げることのできる場所、神の恵みと導きを感じることのできる場所であって欲しいものです。


2013 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai