食前の祈り

司祭 アンデレ中村 豊

 本の題も著者も全く思い出せないが、その本には次のような出来事が載せられていた。

食前の感謝

 ある地方の教会に神学校出たての独身牧師が赴任してきた。何らかの事情で牧師館に住むことができず下宿することになった。教会員が献金として出せる牧師さんの給料はわずかである。話し合った結果、毎日持ち回りで信徒が夕食を世話することになった。ところが多くの家庭では問題が一つ持ち上がった。家が散らかっているとか、食事をする場所が狭いとか、粗末な料理しかだせないというものではない。いよいよ牧師さんがくる夕方となった。丁重に迎え、家族の者全員が揃ったところで食前の祈りを献げる段となった。ところが、口に出る祈りは誠にぎこちないものであった。教会員の多くの家庭では、感謝の祈りを抜きにして、てんで勝手に食事をしていることがこの祈りを聞いてわかってしまったのである。結局、食事持ち回りは約1か月で中止となった。

 聖公会のほとんどの教会では主日に聖餐式が執行されており、信仰の養いとなる霊的な食物を感謝していただくことができる。日曜日、キリストの体と血をいただく前には盛大な祈りを献げる。一方、日々の肉の糧をいただくとき、感謝する必要はないというわけにはいかない。主イエスの時代、安息日の食事では、その家の父親が大地からパンを与えてくだる神に感謝の祈りを献げ、席にいる者全員にパンを裂いて分け与え、その後ぶどう酒の入った杯をとり感謝しそれを全員が飲んだ。つまり、感謝の祈りなくしては食事を始めることができなかった。聖餐式はこのような食事が原型になっていることを忘れてはならない。

中身のない祈り

 ある映画の1シーン。アメリカのとあるレストランで大の男がわらじのような分厚い、血のしたたるステーキをむさぼるように食べている。目を上げると、天井からぶらさがっているテレビは、丁度ニュースを流している。アフリカのどこかの国で内戦が起こり飢饉が重なって多くの人たちが村を捨て移動している。しかし、食べるものが充分でなく、このまま放置すれば何万という人たちが死んでしまう。アナウンサーがこのようにレポートすると、手を休めてこれを見ていた男は「こんな悲惨なことがあってなるものか。可哀想に。この国の人たちを何とかしなければ」とつぶやき、再びステーキを口にほうばっている。
 食前の祈りの中で「どうかこの時、世界のすべての人にも食事が与えられますように」と言う人がいる。どのような意味がここに含まれているのだろうか。単に祈ったところで世界中で四分の三の人にはその日の糧が充分に与えられていない。内戦や飢饉が原因で一日に一食しか食事できない人はどのような祈りを献げるのだろうか。今、食事にありつけたことを感謝し、続いて「神さま、どうか明日も何とかして糧を与えてください!」と祈らざるを得ないであろう。そう祈られても、神さまは動いてくださらないだろう。日々の糧に困らない側にいる人たち自身が、神に代わって行動を起こさない限り、この現実を変えることができないのである。

祈りの必要性

 5月5日(日)復活節第六主日はロゲーションサンデーで、続く3日間をロゲーション・デーと呼ぶ。ロゲーションとは「祈り」という意味である。4世紀初頭、キリスト教がローマ帝国の公認宗教になり、帝国内の人たちが我先にキリスト教に改宗したが約100年後火山噴火が起こった。甚大な被害を受けたウイーンとその地方一帯では、自分の身の保全を図ることしか考えない信徒が大勢いて、混乱に拍車がかかった。これを憂いて、ウイーンのマメルタス(Mamertus)主教がこの3日間、この世界と人々のために祈ることを教区民に命じたのであった。信仰生活に危機が訪れる第一歩は祈りを忘れることなのである。


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