「夢や希望を1つか2つ持ったとしても、それは絶対といっていいほど実現されませんよ。野球選手を見てごらんなさい。10回打席に入ってその内たった3回ヒットを打っても一流選手と見なされるのですよ。夢や希望を10もっていてもそのうちのせいぜい2つか3つしかかなえられたらいいほうでしょう。」
作曲家の平尾昌晃さんはラジオ番組でこのように語りました。
相手の立場に立てない
わたしたちが2002年の始めに願ったことはすべてかなえられたでしょうか。しなければならないことをせず空しく無駄に過ごした時はなかったのか。人に対して多くの失礼をしたのではないだろうか。反省すべき沢山の出来事がこの時期去来します。問題は「私」にあるようです。「私が考え判断したことは先ず間違いない。人もきっと納得してくれるであろう」という「私」の思いです。うまくことが運ばなかったとき、その「私」は諸々の事情に責任転嫁してしまうのです。「私」の思いが物事を失敗に導く最大の要因であることになかなか気づかないでいるのです。
「小学校三年生の男の子が、学校から帰宅して、理科のテストは35点だったと言って母親に見せました。その子の母親は、テストだけがすべてでない。学力だけがすべてでないと思って見ても、持って帰ってきたテストの点数の低さには、がっかりしてしまいました。たとえば、テストでこのような問題があったそうです。『天気予報は、おもにどんなとき見たり聞いたりしますか』の問いに、この男の子は、『泥棒をつかまえたとき』と書いていたのです。母親は、我が子がどうしてそんな答えを出すのか、理解できません。でもよく考えてみると、ニュースの時間に天気予報が出ますが、同時に、強盗の事件や、詐欺事件がひんぱんに報告されているのです。そのことに、この母親はやっと気づきました。子供にたずねると、そうだと答えたそうです。そこで、この母親は、35点に幻滅して、子供の思考を冷静に思いやることをしなかったことを反省しました。」
(渡辺純幸著「豪華な部屋はないけれど」より)
僅かなものに感謝
5000人の群衆を思い出します。主イエスが弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたときフィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも200デナリオン(約200万円)分のパンでは足りないでしょう」と報告しました。もう一人の弟子アンデレは「大麦のパン5つと魚2匹とをもっている少年がいます。けれどもこんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」と悲観し、日も暮れかかっているし早く5000人の群衆を解散させるよう暗に主イエスに求めているのです。「私」の尺度でしか物事を考えようとしない。そこには何の感動も生まれない人間の生き様が二人の言動のなかに明らかにされています。
充分満ちたりた生活を送っている人のなかにも、その中で一つや二つ欠けたものがあるとどうしても我慢ならないと思い、不平不満をつぶやき始める人がいます。5つのパンと2匹の魚は少年一人分の弁当です。全員のことを考えますと満足度は5000分の1にも満たないでしょう。ところが主イエスがこの僅かなものを取り感謝の祈りを唱えながら群衆に配るとどうなったでしょう。余りまで出るほど人びとは満足したのでした。
この少年のように、与えられたわずかな恵みでも、それを「私」のうちにしまい込むのではなく、感謝してそれを他者と分かち合うとき、恵みも倍増し、予想もしない喜びが与えられるのです。
2002年にわたしたちに与えられた数々の恵みを共に分かち合い、2003年も祝福された一年であるよう共に祈りましょう。
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