何をすれば

司祭パウロ上原信幸

 福音書の中に、一人の男がイエス様に近寄り、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねる場面があります。
彼は、品行方正な人間で、イエス様に「これまで掟は守ってきました」とためらいなく答えます。
しかし、それだけでは満足できず、自分が天国に入るにふさわしい人間であると確信を持つため、人とはちがったことを成し遂げたかったのかもしれません。
そこで、イエス様の前にひざまずいて教えを請いました。
もし、イエス様が彼に、「異教徒をこの国から追い出し、イスラエルを神の国とするために戦え」と言われれば、喜んで武器を取ったかもしれません。
「荒れ野で断食をせよ」と言われれば、何のためらいもなく生死のギリギリまで、苦行をしたかもしれません。
 福音書によって、彼は「青年」と記されたり、「議員」と記されたりしていますが、まちがいのないことは「非常なお金持ちであった」ということです。
 そのような高い地位にあった者が、恥も外聞も捨てて、田舎から出てきた、祭司でも律法学者でもないイエス様の前にひざまずくということは、かなりの覚悟があったことでしょう。
 昔、アラムの軍司令官ナマンが敗戦国ともいうべきイスラエルにまでくだって来て、エリシャをたずねたときのように、大変なことを命じられても、何でもしようという決意があったと思います。

善いこと
大斎中私たちは、主にならって、信仰的な鍛錬を行います。
 イエス様は、その活動を始めるにあたり、40日もの間、荒れ野で試練を受けられました。ということは、いとも簡単に悪魔の誘惑を退けられたわけではないということです。
 それは、この世界が複雑で、「善いこと」つまり、何が善で、何が悪であるかということを、そう単純に分けることができないことの現れであるように思います。
 イエス様は、ご自分の宣教活動でどのような行いをし、どのようなことを教えるのか、何が人を活かし、何が人をだめにすることになるのか、何を求め、何を捨てなくてはならないかを、何十日も考えられ、活動を始められてからも、何度も祈り、考える時を持たれました。
 また、同じ行いをしても、その動機によってその意味が大きく変わることを、聖パウロが「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」と教えられている通り、私たちは良く知っています。
 イエス様は、「自分の持つものを捨てて、私に従いなさい」と答えられました。従うということも、今の時代で何をすればよいのかは、やはり私たちが一人ひとり真剣に考えなくてはならないことです。
 ただ他人と同じ行為をしていても、イエス様に従うことにならないこともあれば、正反対の行為をしても従うことになることもありうるわけですから。
 神様に従うために、何を行い、どのように生きようとするのか、これは大斎節のテーマでありますが、イエス様ですら40日かけて取り組まれたわけですから、私たちにとっては、一生をかけて祈り考えつづけなければならない課題ということになります。
神と人とを愛するという教えのもと、み心をこの地上で実現させる使命を委ねられたキリスト者として、大斎節もその後も歩みたいと思います。


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