復活のみ姿を私にも現してください

司祭アンデレ 中村 豊

 復活日の朝、マグダラのマリアはイエスが葬られた墓の外で泣いていた。振り向くと、そこにイエスが立っておられるを見たが、それがイエスだとわ思わなかった。ヨハネ福音書はこのように記す。ルカ福音書はどうか。「2人の弟子がエマオという村に向かって歩いていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められたが二人にはそれがイエスだとは分からなかった。」という。

誰が復活のイエス
 復活されたイエスがエルサレムやガリラヤ地方を歩き回っても、それがイエスであることに気付く人はごく限られていたといえる。19世紀最後、その後の終末信仰・再臨信仰の姿勢に大きな影響を与えたブルムハルトは、南ドイツの村で牧師としてその生涯を終えた人である。ブルムハルトについて有名な話がある。牧師館の庭先には、いつも一台の馬車が用意されていたという。イエスが来られるとき、その馬車に乗って再臨の場所にかけつけるためであった。では35才前後で亡くなられたといわれるイエスが同じ年齢、当時と同じ服装で今神戸の街を歩いたとして、それが再臨されたイエスであることに私たちは気付くだろうか。それは不可能であろう。なぜなら、寝食を共にした弟子たちはイエスの姿を描いた絵などを後世に残してはいないし、福音書から想像される主イエスの姿はそれを読む人によって全然異なっているからである。
 明らかなことは、「弟子たちが何らかのしかたで出会ったと証言し、その体験から、『イエスは復活させられた』と理解したというのが歴史的なのである。『イエスの復活』ではなく、『イエスの復活への弟子たちの信仰』が歴史的なのである。」 (百瀬文晃)

it とthe
 「机の上にリンゴがあります」と言うときに、英語では「There is an apple on the desk」と言う。この時点では、あくまでも、視覚情報として入ってきた「赤くて丸い物」に対して脳の中で「リンゴ活動」が発生した結果としての「リンゴ」に過ぎない。不定冠詞が付く時は脳内の過程に過ぎないのです。では次に、その外界のリンゴを本当に手で掴んでかじってみます。もしかするとそれは実際には、蝋細工かもしれません。ともかく、この時点でようやく実体としてのリンゴになります。それが英語では「the apple」になります。実体となったから定冠詞が付く。「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。では、こういう重要な違いというのが日本語に存在しないかというと、そんなことはない。「昔々、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは、山ヘ柴刈りに・・・・・・」という一節は誰でも知っています。最初に「おじいさんとおばあさんがおりました」と言う時には、子供に、おまえの頭の中に爺さんのイメージと婆さんのイメージを浮かべろ、と言っている。特定の爺さん、婆さんを浮かべろと。浮かんだら、今度はそのお爺さんが物語の中で動き出します。「おじいさんは、山ヘ柴刈りに」という時には、特定のお爺さんが動き始めるわけです。 (養老孟司)

 マグダラのマリアやエマオ途上の2人の弟子にとって側にいた人は他人に過ぎないと思った。ところが、マリアの場合、自分の名前を呼ばれたとき、それが復活のイエスだと分かった。2人の弟子は「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったではないか」と、その人から聖書全体の説明を受け、夕食のパンをその人からいただいたとき、それが復活のイエスとわかったのである。
 二千年後の今日、同じことが起こされる。聖書に親しみ日々祈りを献げ、聖餐式に出席するなかで、「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちに(祈祷書162頁)」も復活のイエスが臨まれている、そのイエスの像を心に深く刻むことができるのである。


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