いきなり、自分のことで恐縮ですが、昨年の9月、血液検査によって、癌の疑いのあることを知らされました。私の家系には癌になった者はおりませんから、青天の霹靂でした。即、入院し、精密検査を受けたところ、かなり進行しており、転移もあるとのことでした。そこで、そのまま手術を受けましたが、病床でわたしが考えたことを少し述べてみたいと思います。
まず「不条理」という言葉を思い浮かべました。「真剣に生きているつもりのこのわたしがなぜ癌に」「教会活動を真面目に送っているこのわたしが何故癌に」というのが、傲慢かも知れませんが、最初の反応でした。わたしは、いつもキリスト教学の授業で「終末論的生き方」ということを教えています。「終末論的生き方」とは、人間には、死という終わりがあるのだから、いつ何時、終わりがきても、怖れない。いつも死という不条理と向き合っているという生き方です。「人間は本来的に死への存在である」と常日頃、考え、理解しているつもりでした。しかし、癌の宣告によって、そのような理解が頭だけの理解であったことを思い知らされたのです。自分がこの世からいなくなってしまうということへの不安を拭い去ることができません。自分がいなくなるのは許せるとしても、家族や親しい友人との別れを思うと、神様を呪いたくなるほどでした。
私は、入院中ベッドの上で「旧約聖書」の『ヨブ記』と『コヘレトの言葉』とを何度も何度も読みました。そして、「神は人間を単純に造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」という『コヘレトの言葉』7章二九節の聖句に出会いました[新共同訳では、「神は人間をまっすぐに造られたが」となっていますが、私は敢えて「単純に」と訳しました]。人は知識を得れぱ得るほど、赤子のような素朴な生き方を捨てて、より複雑な生き方を選ぼうとします。そして、複雑に考えれば考えるほど、なぜか、人に対する信頼は薄れて、不安に苛まれる。賢者コへレトは、そのことを鋭く抉り出しているのです。いかに高度な思考を回らせても、所詮、人間の考えには限界があるというのがコヘレトの言いたいことだと思います。
被造物である人間に、創造者である神の御心は分からないのですから、私は、自分で思い巡らすことを止めることにしました。素直に現実を受け止めることにしました。すると、不安が去って、前向きの心が強まってきたのです。
私には、もうひとつの支えがありました。それは、八木重吉という詩人です。彼は、一八九八年に生まれ、二九歳の若さで肺結核で亡くなった詩人ですが、敬虔なクリスチャンでした。一九二一年、彼が二三歳のときから二七歳まで、この近くの御影にあった師範学校で英語の教師をしていましたので、神戸とは深い関係を持つ詩人です。彼の詩は、いずれも短いのですが、たとえば、
きりすとを おもいたい
いっぽんの木のようにおも いたい
ながれのようにおもいたい
素直な信仰が表現されています。その彼が苦しみの中でうたった詩があります。
このかなしみを よし と うべなうとき、そこに
たちまち ひかりが
うまれる
ぜつぼうと すくいの
はかないまでの
かすかなひとすじ
私は、八木重吉にならって「かなしみを よしと うべなった」のでした。その事実を事実として、受け入れたのです。すると、心に一筋の光が射してきて、希望が湧いてきました。
何はともあれ
私は死ぬる瞬間まで
生きる!
という努力を捨てない
これもまた、八木重吉の詩です。
私の好きな作家の一人である村上龍が書いた『共生虫』という小説があります。ウエムラという引きこもりの青年が主人公の小説ですが、村上龍は「あとがき」のなかで、「現代の日本の社会は希望を必要としていないのではないかと思う。希望はネガティブな状況で必要になるものだ。つまり、現在よりも未来のほうがいいものになるだろう、という期待や確信が希望だから、難民キャンプの人々や抑圧される被支配者には希望が必要になる」と書いています。私の少年時代は食べることが、まず第一の関心事でした。そして、十分に食べられるようになることを、私たちは社会に求めたのでした。現在の日本では、その願いがかなえられ、食べ物が有り余っているように見えます。したがって、物質的にはあらゆるものが充足しているようです。そういう意味では「社会的な希望がどうしても必要な時代は終わっているかもしれない」という村上龍の言葉は当たっています。
とはいえ、人間である限り、未来に対する希望は無くなることはありません。むしろ、未来を語り、希望を求めるのは、人間の特権です。しかしながら、その希望は、自分で発見する希望でなくてはなりません。頭で考えるようなものではなく、自分の体と心の中から湧き出るものだと思います。八木重吉が苦しみの中で見出したように、いかなる自分であれ、あるがままの自分を受け入れるとき、希望が生まれてきます。そして、自分を素直に受け入れることができれば、自分以外の他者に対する思いやりが生まれ、他者をも受け入れることができます。そうすれば、希望は、個人的なものではなく、個人を超えた広がりをもつことになるはずです。希望は、友と語り合って初めて本当の希望となるでしょう。精神的な意味での希望が見えにくい、閉塞的な社会つまり、他者との関係が希薄になっている社会へと旅立つていくみなさんには、この松蔭で培った「愛の精神」を忘れずに、ひとりよがりになることなく、他者を受け入れる寛容の精神をもって、また、他者に対する思いやりをもって、それぞれの希望を見出し、それを現実のものとしていただきたいと願っております。 (二〇〇二年度卒業式)
注.最初と最後の文章は割愛 させていただきました。
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