ことば雑感

司祭アンデレ 中村 豊

その昔、英国ケラム神学校での勉学を終え帰路につく途中、旅費節約のためパリから夜行列車に乗りローマに行くことにし、さっそく駅の窓口で乗車券を買い求めた。

ことばが全く通じない!
 乗車券を手にし英語で「指定券もください」と言うと窓口の女性は向こうを指さし、フランス語でなにやら言っている。「向こうに行け」という意味らしい。示された窓口で「指定券を下さい」というと、係の人は先ほど乗車券を買った窓口を指さしながらフランス語をしゃべっている。再びそこに行くと、またまた向こうを指さす。その内に同じ列車の切符を買い求めにきた、フランス語がわからない人たち、その殆どがアメリカ人学生、が7,8名に膨れあがり、揃って2つの窓口を行ったり来たりするのであるが埒があかない。4、50分位経ったであろうか、「どうしたんですか」とアメリカ人学生がわたしたちの間に入ってきた。運良くこの学生はフランス語が得意で、切符の問題は瞬く間に解決した。答えは簡単、もう一つの窓口で乗車券を見せれば指定券を発行してくれるのであった。
 客室は6人一室のコンパートメントで、夜間は2人部屋となる。同室の男性はどこの国の人なのだろうか。英語で話しかけると、相手はフランス語で応える。わたしがフランス語が分からないことを知ると今度はドイツ語で話しかけてくる。当方はフランス語もドイツ語も皆目理解できないから英語で返事を返す。しかし相手は全く英語が分からないときている。向かい合って話しかけても通じる道理はなく、諦めて寝ることにした。明け方、列車はモンブランの麓に至り、その男性は汽車から降り立った。言葉の壁があってもお互いの心は通じあえるというのは全くの幻想なのである。

ウイリアムス司祭の苦悩
 五旬節祭の日のエルサレム、弟子たちに炎のような霊がくだされた。弟子たちは、聖霊が語らせるままにセム語、ペルシャ語、ギリシャ語、ラテン語などを用いて、神の偉大な業を語り出した。固有の言語はその国の歴史や伝統、文化を明確に表現する手段である。以来2000年間、教会は世界各国で語られる言葉を用いて、普遍的な神の業を説いてきた。この弟子たちの業を日本で実践した最初の聖公会関係者がウイリアムス司祭といえる。
 1859年、英国聖公会の日本宣教師として任命されたウイリアムス司祭は長崎に上陸した。しかし、徳川幕府は外圧により開国に踏み切ったといえ、キリスト教禁令は解かず、「切支丹邪宗門ノ儀ハ是迄ノ通リ堅ク禁制ノ事」と書かれた札が市街の至るところに掲げられていた。官憲の目は厳しく、宣教しようにも日本人と接触することは困難を極めた。ウイリアムス司祭はやむなく日本語修得に力を注ぎ、主の祈り、信経、十戒を訳し、これを一冊の本にしたためた。しかし、「はなはだ不完全なもので、これを出版するためには一層の訂正が必要であろう」と語学力が乏しいことを率直に述べている。英米の宗教や文化が今後世界を席巻するのだという優越感をその時もっておれば、わざわざ日本語を学ぶ必要はない。日本人が英語を学べばいいのである。日本語を通しての宣教しかあり得ないという思いこそ正しく聖霊の働きなのである。

救いの明確な表現を
 使徒の時代、アジア・ヨーロッパ各地で福音を聞いた人たちの多くは「神の怒りを受けても当然の人間である」という自覚があった。福音はそのような背景をもつ世界に「よきおとずれ」として登場したのである。自分が死に至る病にかかっていると自覚している人々に、癒される可能性があると訴える使徒たちの言葉こそ、この人たちに福音をもたらすものであった。
 福音を語る使徒たちの側に、復活のキリストにより新たにされたという信仰があり、それをことばのとして明確に伝えたからこそ、多くの人たちの心の琴線に触れたのである。
 キリスト教信仰を明確な日本語で表現することなしには日本での宣教発展は望めない。何を言っているのかよくわからないとしばしば注意されるわたし自身の反省の材料でもある。


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