バリアフリー

司祭パウロ 上原 信幸

 秋の収穫献金は近年、聖職候補生の養成のためにもちいられて来ましたが、今年から数年間、老朽化した礼拝堂・牧師館・会館の修繕等のために用いられます。
 修繕のために用いられるケースは、1995年から一時期ありましたが、今年からはただ修繕だけではなく、バリアフリーのためにも申請が可能になりました。
 神戸教区内の教会でも、エレベーターやリフトを設置する教会が増え、平屋の教会でもスロープが設置されるようになりましたが、資金的な問題もありますので、それが妨げになるのであれば、皆で支えましょうというものです。
「バリヤー」−日本語で書けば、障害物ですが、語源はバーということで、酒場と同じ語源です。
 盛り場のバーが、家庭までの障壁となっているかどうかしりませんが、我が家では最近、ちらばったブロックによって結界がはられ、足下を確かめないで居間に入ると、行く手をはばまれ、しばしば痛い思いをします。
 結界は、本来僧侶などの修行に障害が出ないようにもうけた境界だそうですから、障壁というよりも、むしろ、障害を取り除くものであったのでしょう。
 子どもの平安を乱す侵入者は、悪鬼のごとく、その入口で撃退されるわけです。

つまずかせるもの
 イエス様は、ご自分の周りにはバリヤーをはられませんでした。
 重荷を負う者、渇く者は「だれでもわたしのところへ来なさい」と語られます。
 イエス様のもとに、子どもが来ることを妨げようとした弟子達を叱り、また、「わたしを信じる小さな者の一人をつまずかせる者は、深い海に沈められる方がましである」とも語られました。
「敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」と教えられたイエス様ですが、小さな者を、つまずかせる者は、追い出しなさいと強い口調で語られます。
 小さな者とは、求道者や新しい信徒、子どもといった弱い立場の人達ですが、そのような人達に対する配慮を強調されたわけです。
 教会はキリストの身体であるといわれます。イエス様はご自分の肢体のように信徒を大切に思い、愛されておられます。
 しかし、その手足や目がつまずかせるなら、切り落として捨てなさいとも語られました。
 それはイエス様にとっても自らの一部を失うことでつらいことですが、いわば手足を失うというハンデを負い、自由を失っても、障害を取り除き神の国に入れとおっしゃるのです。

生活の妨げ
 信仰生活には何かを失っても、得なくてはならない大切なものがあるということです。
 洗礼者ヨハネは、洗礼を受けるために集まった人々に、条件をつけませんでした。
 徴税人をやめなければ洗礼を施さないとか、兵士をやめなければならないとは言わず、その代わりその後の生き方として、「決められたもの以上に取り立ててはいけない」「人からゆすり取ってはいけない」「下着を2枚もっている者は、持たない者に分け、食べ物も同様に」と語りました。
 徴税人や兵士も、そのような利得によって生活がなりたっているわけですから、信仰生活に入る障害ともなるはずです。
 教会は無用の障害は取り除くべきですが、すべて意に添わないものを排除して、「信仰生活に入る前も、後も何も変わらない」「すべていままで通り」というわけにはいかないのです。
「自由を失う奉仕はしない」「何も失わない」「献げものはしない」など、神の国のために、損失を覚悟しないで、神の国に入ることはできないことを覚えなくてはなりません。


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