先日、ある信徒が「以前は張り切って教会に出かけ、熱心に祈りを献げることができたのに最近はマンネリ化して礼拝や祈りに身が入りません。礼拝の心構えも出来ていないし、祈祷文も上の空でしか聞けません。」というのです。私は「それは当たり前の話で、信仰の先人たちはどれだけ祈ることに苦闘したかを知れば、そのような話は問題にもならない」と答えました。
わずか1分の対話
ミカエル大聖堂にも来られたラムゼー・カンタベリー大主教がヨーク大主教時代、マーフィールドにある復活修道会(Community of the Resurrection)の「擁護者」に就任しました。この修道会は19世紀最後、大主教が尊敬するチャールス・ゴアによって創設されたものです。大主教時代の5年間、毎年欠かさず修道会を訪れ修道士全員と面談し、その使命の必要性を説いたのでした。大主教はこの修道会に大いに期待し、その活動の価値を高く評価しました。何故なら大主教はこのような霊的生活を愛しており、教会も長いあいだ修道会の信仰の在り方を尊重してきたという聖公会の歴史への愛着の現われでもあったのです。ラムゼー大主教はその後カンタベリー大主教に着座されましたが、ある時、レポーターに、大主教の祈りの姿勢について質問されました。「小説家というのは、人生における様々な嵐のただ中においても心の静けさと平安をもてるよう、内なる城を築かなくてはいけません。私にとってそれは毎日の聖餐式のときです。」そこでレポーターは、「今朝、あなたは祈りましたか」と聞いたところ、大主教は「はい」と答えました。レポーターはすかさず「何を祈りで求めましたか」と聞きますと、「神さまと話をすることです」。「で、どれくらい神とお話をしましたか」と聞き返しますと、「たったの1分です。20分間も祈ってようやく話すことが出来ました」と返答したのです。
20分間黙想してたったの1分しか神との対話ができなかった、とおっしゃる大主教はもう何十年も毎日欠かさず祈りを献げてきたという、祈りの人でした。そのような人でさえ、神との対話の困難さを表明しているのです。多忙な方であり、解決しなければならない問題を次から次に突きつけられ、そのような中で祈りの時間をもったとしても、雑念を追い払うことは大変な修練が求められることを告白しているともいえます。反対に、平穏無事な毎日を過ごしていると思っている人にとっての祈りは切実感にかけ、内容が空疎になるきらいがあります。
祈りの力
須磨の聖ヨハネ教会勤務時代、毎日午前3時に起きて高取山に登り、自宅に帰ってから聖書を開き、その後祈りを献げるという日課を10年以上も続けていた信者さんがおられました。その頃、教会再建が決まり図面も完成、建築費用の積算が開始されました。その結果、教会が想定していた金額より1千万円の上乗せが必要であることが明らかになったのです。主日礼拝の後、このことを信徒の方々に説明し、「あらゆる手だてを講じても、今の教会の現状では1千万円を集めるのはとても無理な相談です。」との私見を述べました。その時、その信者さんが立ち上がり、「先生、何を悲観しているのです。その1千万円は必ず与えられます。どんどん今の計画を進めましょう。」と言うのです。この言葉に励まされ、建築の仕様を下げることなく、つまり1千万円不足のまま計画が実行に移されましたが、多くの人たちの献金により不足金は確かに解消されたのでした。祈りによって与えられた信仰の確信はゆるぎないということが、牧師ではなくて、信徒によって証明されたのでした。
欲望と怒り
部屋で静かに黙想を開始したとします。しばらくしてどのような思いが脳裏によぎってくるでしょうか。最初は神に祈りを献げているつもりが、いつの間にか様々な欲望と他人や自分に対する怒りという雑音が聞こえてくるでしょう。ああしたらよい、こうしたらどうかという要求や、自分や人に対する怒りや憤りが心を支配し、振り払ってもふりはらっても、このような思いがまとわりついて離れないのです。このような状態が何日も続きますと多くの人たちが祈ることをあきらめてしまいます。ナウエンは言います。「私たちの心の不安は、私たちに真の内なる安息を探し求めるように呼びかけています。欲望と怒りとがより深く愛する方法へと変えられるような安息を。」
神の愛によって生きる生活への回帰が大斎に求められます。
|