主は我が牧者

主教 ヨハネ 大久保直彦
(神戸教区宣教百年記念礼拝説教抜粋・1976年9月23日)

 百年の神戸教区を顧みる時、大小無数の有名無名の星を思う。これらの星の語るものは、神の栄光であり、そのくすしきみ業である。栄光とは、そしてみわざとは何か。この、地の果てにまで及んだ大いなる言葉と行為とは何なのか。
 もっと端的に言えば、それは神の愛の響きである。そして、われわれはそれをまた次の代に伝えようとしている。イエスの生涯は、われわれと同じ人間の経験において、われわれにこれを示された。
 
父 の 愛

 私は若い頃、思想問題で学生運動に没入し、父はこのために私を訓戒したが、私は益々自分の信念を貫こうとするばかりであった。そのあげく勘当の身となったが、私は、父はなんと息子の心を知らないのかと憤慨するばかりであった。
 私は聖職となり、父は世を去った。戦争中のことだったが、父の遺品を整理していて、父の百冊近い日記帳を発見した。父が私に対して怒っていた頃の年代を見て、びっくりした。父は、その日から数年の間、日記帳の頁全体に、私に対する深い思いやりの言葉を書きつづっていた。早速、父の墓前で自分の不明を詫びた。父の怒りは、嘆きから愛になり、悩みが思いやりになった。新約の神のみ心は、まさしくそのようなものがあることを思う。

待つ愛
 
 神の怒りは、悲しみ、嘆きのゆえに人一人一人が神のもとにたちかえることを願っておられる。神はいま、あなたのため、神の大きな苦しみと嘆きをもって、最後の一人まで待ってい給う―それが神の心である。
 それならば、われわれに与えられた「となり人を愛せよ」という唯一の教えにおいて、愛とは最も具体的に待つことであり、愛しているとは、「待てる」ことである。
 神は、罪深く弱い私たちをすら、信頼し、そのたちかえりを切に待っておられる。これが福音の歴史だと、聖書は述べている。
 中天に輝く、大小無数の神戸教区の星は、いまこの瞬間、待たれているのである。

愛の証し

 私はこの神の愛の姿勢を強調したい。そして、詩篇第二十三篇の言葉を贈呈したいと思う。
 私が教区主教に聖別された時、蒔田誠主教が、「これはわしが前のビショップから受け継いだ言葉で、受け継げ」と言われた言葉だ。詩二十三篇を言ってみよ」と言われて、はじめの「主はわが牧者なり」を知っていたので、唱えた。そして、「どういうわけか」と尋ねたところ、「話に聞いたところによると、マキム主教が、ニューヨークで聖別されるとき、主題として選んだものを代々伝えたもの」ということであった。
 主はわが牧者であり、あらゆる教役者は、主によって与えられた牧者である。つくづく思うことは、牧されている経験を持たなくてはならないということである。
 本当に愛する者は、とことん待てるというキリスト教の愛の姿勢は、真実そのように待てる時があるということを示している。神に待たれている自分という福音の事実を体験した時に、とことんまで隣人を待とうという姿勢が起こってくるはずである。神はあらゆる人の牧者であり給うことを、聖職は現実の姿として示すものでなくてはならない。司祭職にある者は、その生活の中で、その愛の証しがなくて、どうして牧者たり得るというのであろう。これを全うするのが聖職の使命なのである。
 今日、神の前にこの日のあったことを感謝し、神戸教区宣教百年に幾多の先人たちから受け継いだものを、次の代に伝えていくことの決意をかためることをお祈りしたい。


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