子どもに命を与える保育者 |
主教 アンデレ
中村 豊
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(聖公会保育連盟保育者大会聖餐式説教抜粋・二〇〇四年七月二三日) 聖書箇所 ヨハネによる福音書十章 三節、四節 「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」 この説教をするに当たり、今の保育者に要求されているものは何かを私の関係する幼稚園の園長と主任に尋ねてみました。即座に「それは先生の感性を豊かにすることです」という答えが返ってきました。 豊かな感性 感性というのは「外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性」と広辞苑で説明しております。保育の目的の一つは園児の心と体を動かし感受性の強い子に育てることです。 心の栄養 三十年以上も前の話です。神学生として米子の教会に勤務していた時、何かの用で大山に休養に来ていた宣教師ご夫妻を旅館に訪ねました。部屋に入りますと、ちょうど生まれたばかりの赤ちゃんが泣いておりました。お母さんはどうしたかというと、赤ちゃんを両手でかかえあげ、おお泣きしている赤ちゃんをじっと見つめ続けているのです。何のためにそうしているのかその時にはわかりませんでした。後から考えてみますと、赤ちゃんを慈しみのまなざしで見つめ、「心の栄養」を与えて泣きやむのを待っていたようです。当時、スポック博士の育児書が大流行し、授乳は三、四時間おきでよいと指南していました。宣教師の奥さんは恐らくこの本に忠実に従って、決められた授乳時間前に泣き叫ぶのでこのような振る舞いにでたようであります。 三つ子の魂 E・H・エリクソンの「アイデンティティー」及び「幼児期と社会」という本の中で、次のような文章があります。 アメリカ先住民スー族の年配者が、白人の親が幼児を泣くに任せて放っておくのを見て、「『これできっと肺が強くなるのだ』とこのお母さんは信じている」とけなしております。ではスー族ではどのように躾ているのでしょうか。幼児は二才になるまで母乳を与えるのは普通です。赤ん坊が初めてかむことをおぼえ、その手始めとして母親の乳首を噛む。母親はどう対処するかというと、赤ん坊の頭をごつんと殴るのです。赤ちゃんは当然顔を真っ赤にして狂ったように怒り出します。そこでお母さんは揺りかごに子どもを寝かせ首まで革ひもで縛り付け、泣きやむのを待っているのです。なぜこのような躾をするかというと、それによって子どもは忍耐を学び、立派な狩人に成長するものだと信じているからです。このような繰り返しで乳児はおっぱいを飲むことを許してもらう為には乳房をかまないことを学んでいくのです。 共感する子ども かって私が幼稚園の園長をしていたとき、朝、ときどき子どもたちと「プロレスごっこ」をしました。これを始めますと五,六人の子どもたちがからだにまつわりついてきて離れません。逃げても追いかけてきて首や腰、足にしがみついてきます。その中の一人に運動神経が抜群な子がおり、しつこくわたしに挑んできます。最後のとどめは背後からの回し蹴りです。わたしは足の皿を思いきりけられ、痛さの余り運動場にうづくまりました。もう「プロレスごっこ」どころではありません。教室入口の段のところで座り痛みが去るのをじっと待っておりました。そうしますと女の子が2人、私の側にやってきて、「先生、痛かったでしょう。大変でしょう。私も何回もやられたことがあるのよ」と言ってしきりに私を慰めてくれるのです。驚き感激しました。このような小さな子どもでも、大人であるわたしの気持ちを理解し、共感を覚えてくれるのです。この腕白坊主、某県の中学で体操のホープになっております。 信頼関係の構築 キリスト教に基づく保育を実施しようとする先生は良き羊飼いとしての資質を備えるため不断の努力が求められます。主イエスが言われたように、良き保育者は自分に従う子どもたち一人ひとりを知っており、子どもたちも自分たちの先生を自分なりのかたちで知っています。保育者と子どもたちとの間には、お互いの信頼、思いやり、相互の愛がそこにあるからです。保育者に従う子どもたちを正しく導くためには、子どもたちからの励ましと支えも同時に必要なのです。 |