8月6日早朝、広島平和公園の原爆供養塔を訪れました。供養塔には一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約7万柱が納められています。
アメリカの言い分
6時15分、正装に身を固めた神職団が祭壇に横一列に並び代表が祭壇右端に独自にあつらえた祭壇前で祝詞をあげ、お祓いをもって礼拝を終えました。続いて浄土真宗僧侶団が入場し祭壇前でお経を唱え、最後にカトリック・プロテスタントの司教・司祭・教職が鎮魂歌のなか祭壇前で祈りを献げ、聖歌を歌い、最後に聖フランシスの「平和の祈り」を献げ、原爆のよる犠牲者を追悼しました。
60数年間、日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結びました。全体主義国家と呼ばれた三国は、ラジオ、新聞、雑誌などを活用し一つの意見、一つの判断、一つの方向に統一するという独裁制を敷いたわけです。日本人はこのように洗脳された国民であるから原爆を投下し強烈なダメージを与えなければ降伏はしない。通常兵器を用いて本土決戦となったら、想像を絶する人的被害が敵味方双方に生じていたであろう。これがアメリカの原爆投下を正当化する理由の一つです。これにより広島では約20万人、長崎では約7万人の命が一瞬にして失われ、被爆し生き延びた多くの人たちも後遺症に苦しんでいるのです。
中国の言い分
8月20日、旅順の203高地山頂に立ちました。ここには乃木大将自筆の「爾霊山」と書かれた碑が建っています。戦闘後、散らばっていた銃弾を集めて鋳造したものです。乃木希典将軍が203高地を「爾霊山(ニレイザン)」と改名したのです。「ニレイザン」とは203と言う意味と、中国語の「あなたの霊の眠る山」という意味をかけているそうです。100年前の1904年8月から三回にわたる旅順攻略により日本軍は約6万人の死傷者を出しましたが、203高地では約1万人の死傷者を数えます。碑について看板は次のように説明します。「戦後、旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を紀念するため、砲弾の残片から10.3m高さの銃弾のような塔を鋳造し、自らが『爾霊山』という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と耻辱柱となっている」
下り坂の途中脇道にそれ、北側急斜面を少し降っていきますと山頂を囲むようにして掘った頑丈な堡塁跡の一部を見ることができました。ロシア軍はここから急斜面を波状攻撃してくる日本軍兵士をねらい撃ちしたのです。遮蔽物が何も見あたらないこの場所で突撃を繰り返す日本兵は易々と銃弾の餌食になったことは容易に想像できます。堡塁跡を過ぎ斜面を数分降っていきますと「乃木保典君戦死之所」と書かれた碑に至りました。1904年11月30日、203高地占領7日前、乃木将軍の次男はここで銃弾に倒れたのでした。
「(家を守る)静子は、乃木と結ばれたために、甘やかな家庭生活を送ることも出来ず、華やかな将軍夫人としての社交もならず、愛児2人を戦死させ、孤独に老境を過ごしたうえに、乃木とともに殉死をすることになった」(福田和也)のです。
旅順戦跡は江沢民総書記の時代に綺麗に整備され、多くの中国人がここを訪れます。戦跡は反日教育の教材でもあるのです。「日露戦争とは日本とロシアの二侵略者が中国領土を侵略し、中国の主権を侵すことを目的とした罪悪戦争である。日本軍が旅順に進入してから4昼夜連続して殺戮をおこない2万人の同胞が荼毘にふされた」と「旅順口近代戦争遺跡」という本の序は明記します。
日露戦争以来、日本初めアジア、欧米各国では独自の歴史観に基づく平和教育を施しました。それは平和を実現させるどころか反対に第一次、第二次世界大戦を引き起こし現在のイラク戦争の原因となった事実を忘れてはなりません。
「もはや外国人や寄留者でもなく、聖なる民に属する者(エフェソ書2章)」になるという希望と平和の福音を今こそ人種や国家、そして宗教の壁を乗り越えて伝える使命をキリスト者一人ひとりは担っていることを痛感しました。
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