収穫感謝

司祭パウロ上原信幸

 9月の休日、半日ほど森林公園の周辺を散策しました。実りの秋を迎え、クリやドングリがいたる所に落ちていましたが、台風の塩害でコナラやクヌギはだいぶ傷んでいるようです。
 特にクヌギは真っ茶色になり、枝ごと折れているものも少なくありません。これらの木の実は、猪の好物で、貴重な栄養源だということです。この冬、猪たちが食糧不足になれば、町中に下りてくる回数がまた増えそうです。
 紅葉ではなく、塩で色の変わった山の木々をながめながら、六甲山系は広葉樹が多いのだなあと改めて気づかされます。
 以前ミカエル教会120年の展示のため、神戸の古い地図を調べているときに、かつて六甲山は禿げ山だったということを知りました。
 神戸の背景を飾る緑の木々は、自然林ではなく、100年ほど前から植林されたものだということです。
 昔六甲山は、自然林に覆われていました、しかし神戸に住む人が増え、生活圏が拡大されるにつれて、まきや燃料を得るために伐採され、花崗岩が露出する荒れた山と化していきました。
 その後、1000万本を超える植林が行われましたが、その中心は保水力の少ない材木用の針葉樹ではなく、落葉広葉樹や常緑の照葉樹でした。
 そんな事を考えながら、木立の中を歩いて、足下の様々なドングリを眺めているとき、10年ほど前に話題になった「木を植えた男」という絵本のことを思い出しました。
―孤独な青年が、フランスの荒野で、植林を独りで行う、旧約聖書の預言者と同じ名を持つ羊飼いに出会った。彼は毎日100粒のドングリを植え、3年で10万。そのうち2万個が芽を出し、ついには1万本のカシワの木が根付く。
その活動は、二つの大戦の間も途切れることなく続けられ、カシワ、カバ、ブナと森は成長し、森の保水力は荒れ地に小川を復活させ、次ぎ次ぎと村々が再興されるという物語です。
その冒頭には「名誉も報酬ももとめない、まことにおくゆかしいその行いは、いつか必ず見るも確かな証を地上にしるし、のちの世の人びとにあまねく恵みをほどこすもの」と記してありました。
 私は、猪が住宅地を徘徊するというマイナス面ばかり考えていましたが、それには餌付けによる人災の要素もあり、自然とのつきあい方が課題です。
 環境としては、野生の動物が暮らせるほど豊かに回復していることにあらためて気付かされました。。

喜びを分かつ

聖書の中では収穫感謝について、申命記に次のように記してあります。
「あなたは穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油などの十分の一の献げ物、牛や羊の初子、収穫物の献納物などを――あなたの神、主の選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に食べ、主の御前であなたの手の働きすべてを喜び祝いなさい。――その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。」
ここでは、神様の恵みと労働の結果を喜ぶ事と、その収穫物を他者、特に生活が困難な人と分け合う事が感謝の表し方として勧められています。
イエス様は、天に宝を積みなさいと教えられましたが、天に宝を積むこと、その最も具体的な方法は、恵みを他の人と分け合うことだと思います。
この秋、チャリティーコンサートやバザーが予定されていますが、その収益をここ数年フィリピンのアエタ族の方々のために捧げてきました。
彼らは、火山のために生活の基盤となる農地を失いました。火山灰に覆われた大地では、緑を回復し、新しい命を育むことが非常に困難です。
かつて緑を失い、それに伴う土石流や洪水などの災害や、大地震という天災に苦しんだ町に住む者として、また、神様の恵みと、先人たちの努力によって豊かになった町の住民として、秋の様々な活動を通して、分かちあう喜びにも満たされたいと思います。


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