戦争の爪痕 そのU
    - 100年前の日本

主教 アンデレ中村 豊

 頂上までわずか100メーターに過ぎない急斜面の203高地で、無謀と思える突撃を命じられた兵士は次々とロシア軍銃弾の餌食となり、1904年11月30日には乃木将軍の次男もここで戦死しました。余りにも多くの戦死者が出たため、次の日は双方休戦を申し合わせるほど悲惨な状況でした。

乃木将軍は無能?
この日、業を煮やした児玉源太郎が到着し12月5日、乃木希典司令官から指揮権を実質上奪い、わずか半日で203高地の占領に成功しました。その結果、203高地での戦いであれ程の犠牲者を出した乃木将軍は無能だ。それにひきかえ、この高地を僅か一日で攻略した児玉源太郎は立派で有能な指揮官であった。これが司馬遼太郎氏はじめ多くの人たちの人物評価です。ところが福井雄三氏は「『坂の上の雲』に隠された歴史の真実」という本のなかで「司馬氏はこのくだりを書くにあたって、参考文献として引用した『機密日露戦史(これは戦前の陸軍大学で教材として使われていたものである)』をほとんど丸写しにしていると思われる。この文献の本来の意図とは異なる、彼独自の思い入れと想像力で脚色したために、史実とは異なる『物語』になってしまっているのだ。実際には児玉源太郎の助言で行われた戦術変換は全体のごく一部に過ぎず、しかも作戦の大局から見ればほとんど影響はない。」と反論しています。児玉源太郎がそこで指揮を代わろうが代わるまいが早晩、203高地は攻略されていたというのです。
2006年にNHKでテレビドラマ化が予定される「坂の上の雲」ではどのような展開で203高地が攻略されるか、今から楽しみです。

留守家族の悲惨
 当時、国民皆兵の憲法のもとに、明治以前には戦争にかり出されることがなかった庶民が、兵士となり戦場で戦うことになりました。貧しい生活を毎日強いられていた当時の状況で、男手を奪われてしまった家族にとって徴兵は大きな痛手でした。戦後生きて帰れた人たちはよかったものの、戦争で負傷したり、兵士であった夫や息子を亡くした家族がどれほど悲嘆にくれたかはたやすく想像できます。大黒柱を失い、女手一つで子どもたちを養わなければならなかった家族はこれまで以上に悲惨な生活を強いられたのでした。
 故郷や家族のことを思い後ろ髪を引かれる思いで戦場で敵と対峙する兵士を奮い立たせたのが乃木将軍でした。西南戦争の時は軍旗を失い、日露戦争では二人の息子を戦死させても平常心を失わずに悠然と指揮を執り続けた乃木将軍を兵士は尊敬のまなざしで見ていたのではないでしょうか。
 「明治の人、特に庶民は無能な乃木をあがめ愛した。戦い下手に憤りながら乃木を許した。その悲しみと辛さに共感した。乃木は戦う義務のないものたちを戦わせるだけの何かをもっていた。乃木将軍は日本の弱さの象徴であった。その弱さを振りかざし、渾身の力で戦ったことを愚かと見なされるのか。」(福田和也)
 当時非戦論を唱えた内村鑑三は、「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争はさらに大なる日露戦争を生みました。日露戦争も大なる東洋平和のためでありました。然しこれまたさらにさらに大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。」(「日露戦争より余が受けし利益」より)
と戦争の愚かさを訴えました。内村鑑三の預言通り日本はその後欧米と肩を並べるかのように背伸びをし、分不相応に軍備や国土の拡張をはかりました。明治時代、多くの庶民が持ち合わせていた人間の弱さ、辛さを国の繁栄のために用いることなくして1945年、敗戦を味わう結果になったのです。

歴史から何も学ばない人間
 日露戦争から100年経ち、この間信じられないくらいの人たちが戦争や紛争で命を失いました。戦争の愚かさを実感した多くの人たちは二度と戦争はいやだという思いを抱いています。それにも拘わらず、今日においても世界各地で争いが絶えないのが人間世界の現実です。
 100年の戦争歴史を通して学ぶことの一つは、平和実現のために戦争をするという主張は全くの欺瞞であるということです。
 私たちは「民の罪を赦し、弱さのために犯した罪の束縛から解放してください」(特定24)と神に祈るばかりです。 


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