降臨節を迎えて

司祭パウロ上原信幸

結婚式で朗読される聖書に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」という創世記の一節があります。
人間の使命として、支配するという役割が神様から与えられているのですが、「支配」とか「支配者」という言葉には、一般に力で束縛するというマイナスイメージが強いように思います。
サムエルは、自分たちも異邦人たちと同様「王」が欲しいと願うイスラエルの人々に、人間の王というものは、他人を自分の利益のために奴隷のように使うものだと戒めました。確かに人間の力では、この世の王と同様に、他人を支え、解放するのではなく、権威・権力をもって束縛することしかできないでしょう。
口語訳聖書では、この「支配」の訳に「治める」という言葉をあてていました。他にも「監督する」とか「導く」という訳され方もしており、そのほうが穏やかな感じもします。
しかし、もともと日本語の支配という言葉は、仕事の配分をしたり、指導して仕事をさせることが語源になっているということです。
その文字は、「支え配る」という漢字の組み合わせであり、いずれもマイナスのイメージはありません。
このことから私はしばしば結婚式の説教で「真の支配とは、相手を支えまた相手に必要なものを配ることで、夫婦もお互いにそのように生活することが求められているのだ」とお勧めしています。

王であるキリスト
聖霊降臨後の季節が終わり、いよいよ降臨節に入りますが、聖霊降臨後の最後の主日は、「王なるキリスト」を祝い記念する意図のある主日です。
10月に行われた日本聖公会の主教会では、「王なるキリストの日」という名称を、「降臨節前主日」の名称と共に掲げるということが決められ、将来祈祷書もそのように改められる方向だそうです。
中部教区の森主教様は、その著書「主日のみ言葉」の中で、この主日の解説をして、「皆から嘲られ、自分を救えない無力な王、このメシアの死によって全世界の救いが達成された」と書かれています。
 キリストは、この世の王のような権力で束縛し、服従させるのではなく、この日の特祷にあるように、あらゆるものを回復され、み子の最も深い支配のもとで、解放し、また、集められようとしておられます。
私たちを支え、心を配り、必要なものを自らの十字架を通して与えてくださるキリストこそ、真の意味での「支配者」であり、「指導者」「監督者」ということができます。
まさに、聖パウロがコロサイの信徒への手紙の中で、「王座も主権も、支配も権威も、万物はみ子において造ら
れたからです。――すべてのものは、み子によって支えられています」と記しているとおりです。

任命された者として
私たちの一年は王であるキリストが、私たちの所へおいでになったことを覚えることで始まり、十字架につけられた王として、み業を完成・成就されたことを覚え締めくくりを迎えます。
この暦の中で、私たちは常に神様から、キリストにならう者として「支配する任務」を与えられていることを、再確認したいと思います。
聖パウロは「管理者に要求されるのは忠実であることです。」と勧めています。
神の国の主権者である神様が、愛をもって創造されたこの世界で、その「管理者」あるいは「支配人」の任務を与えられた者として、新しい年を自覚をもって過ごしてまいりたいと思います。


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