1960年代を垂水で過ごした私にとって、思い出の風景とは、見渡す限りの造成地です。
以前、イスラエルを訪れた時に見た、地肌むき出しの丘と、そこから見下ろす死海やガリラヤ湖の風景は、初めて訪れた土地とは思えない、親しみのあるものでした。
そこで拾った薄茶色の小石は、丁度、地中海地方のピタと呼ばれる平たいパンとそっくりの色形です。
「この石をパンに変えたらどうだ」と、悪魔がイエス様にささやきかけた誘惑の言葉も、イスラエルの石を見ればなるほどと思います。
しかし、色形が似ているということは判るのですが、誘惑の形が、なぜ石をパンに変えるということなのかはわかりませんでした。
つまり、単に空腹ということだけであれば、山を下りればよいわけですし、あるいは、悪魔の差し出すパンを食べてはどうだという誘惑の形もあり得たはずです。
人間にとっての誘惑は、自分で行うことができる範囲のことに限られると思います。
自分の力を超えた悪事は、想像をすることはあっても、なかなか誘惑とまではなりません。
凡人には「全世界の支配」とか、「石をパンに変える」といったことは、ちょっと大きすぎて、「自分であればつい誘いにのってしまうかも」という気にはならないのです。
誘惑
イエス様にとって、「もし神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」とか、「神殿の上から飛び降りたらどうだ。――天使たちは手であなたを支えると書いてある。」といった言葉が誘惑になるということは、それは人間が、抱いている救い主のイメージを反映しているからでしょう。
イエス様が救い主としての活動を始められようとする時になされたこの誘惑は、人間の側が、どのような救い主を待ち望んでいるかということに、大きく関係しているように思います。
悪魔の誘惑は、イエス様に対し「実際、人間が神に願うものは、いつの世も家内安全・商売繁盛といったものだ。おまえが神の子であれば、その力があるのだから、そういったものを作り出して、人間に与えればよい。そうすれば救い主として認め、素直に従うだろう。」と、誘惑しているわけです。
逆に言うと、人間に「パン」に代表される、健康の維持や、生活の安定といったものだけを、恵みとしてとらえさせ、そういったものを与えて頂くという関係でのみ、人間に神様を求めさせようとするのが、悪魔の誘惑です。
ただ、イエス様の方も、「パンなどはいらない。パンなどは恵みなどではない。」とは、お答えになりません。人間にとって、パンがいかに重要なものであるかをよく知っておられました。
「神の言葉で生きる」
このイエス様のお答えは、イスラエルの民がいよいよ約束の地に入ろうとするときに、モーセが語った言葉を、そのまま引用されたものです。
イスラエルの民も荒れ野で40年間、マナという天からのパンで養われました。パンも神様が与えて下さる確かな恵みです。
しかし神様はさらに大きな恵みの約束をなさっています。
「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。それは、神様との交わりの内に生きることを許されているということです。
ただ、パンだけをもらって、独り生きていくのではなく、それぞれが神様にとっても大切な存在とされ、日々語りかけられているのだということを覚えたいと思います。
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