復活の証言者 |
司祭
ヨハネ 芳我秀一
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復活節を迎えるたびに思い浮かべるのが「卵」と「うさぎ」です。卵は、新しい生命を生み出すところから復活祭の象徴とされていますが、うさぎはどうして復活祭の象徴となったのでしょうか。いろいろな説がありますが、一般的には季節と自然環境によって変化する肌の色に由来すると云われています。特に「ユキウサギ」などは夏は灰褐色、冬は真っ白に体毛を変化させるのです。真っ白く変容する姿から、うさぎが復活祭の象徴になったというわけです。 マグダラのマリア 変容するうさぎのように、先ずイエス様が十字架にかけられ死なれた後、栄光に満ちた復活の姿を人々に現されました。そして復活のキリストに出会った人々もまた栄光ある復活の姿に変えられていくのですが、最初に復活のキリストに出会い全く新しく変えられていく女性がマグダラのマリアでした。 マグダラのマリアはガリラヤ地方、マグダラ出身の婦人ですが、「七つの悪霊」に悩まされていたと云われています。おそらくマリヤは重度の精神的な障害をもっていたのではないかと考えられています。そのマリヤがイエス様に助けを求め、癒されたのです。以来ずっとイエス様に従っておりましたが、その行き着く先は十字架であり、さらに墓場でありました。マリヤは遺体でもいいから抱きしめたいと願っていましたが、その遺体すらもなくなっていたために悲嘆にくれて泣いていたのです。おそらくこの時マリヤは、この世界のどこにも希望や喜びを見いだすことはできなかったのではないでしょうか。 真の安心 そのような状態に陥ってしまったマリヤに対して復活のキリストは自分の方から、それもマリヤの背後から声をかけられました。 『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』(ヨハネ伝20章15節) さらに『マリア』とやさしく包み込むように呼びかけられた時、マリヤはあの懐かしいイエス様の声だと即座に気づいたのです。マリヤは振り向いて『ラボニ(先生)』といい、復活のキリストに会うことができたのです。 復活のキリストは常に私たちの背後におられます。私たちはキリストにしがみついたり、キリストを自分のこの手に握りしめようとしてもそれはできません。復活のキリストは常に背後からその計り知れない大きな御手の中に私たちを包み込んで守り支えてくださっているのです。その事実を信頼して全てをお委ねすること、つまり永遠なるキリストの御手の中にあることが人間にとってもっとも安心できることをマリアは知らされたのです。もはやマリヤにとっては、死も墓も眼中にはなくなりました。なぜなら生きておられ、常に側にいてくださる復活の主をマリヤは仰ぎ見る人に変えられたからです。マリアはその喜びのあまり『わたしは主を見ました』と弟子たちに伝え、最初の復活の証言者としての栄誉を与ったのです。 神の業 復活の証言は決して人間の思いや考えによってなされたのではありません。神様からたくさんの愛情と力をいただいて感謝と賛美を持ってなされる神様の業です。私たちも復活の証言者として立たせていただけるようにご一緒に祈り求めて参りましょう。 最後に詩人・星野富弘さんの詩を紹介して巻頭言を終わります。 ‘木にある時は 枝にゆだね 枝を離れれば 風にまかせ 地に落ちれば 土と眠る 神様にゆだねた人生なら 木の葉のように 一番美しくなって 散れるだろう’ |