神戸から時々大阪の日本橋にパソコン部品や電気製品を買いに出かけます。阪神高速から大阪環状線に入り、夕陽ヶ丘出口を降りて右折しますと日本橋の電気街、左折しますと四天王寺に至ります。大都市郊外の多くの団地は「何々ヶ丘」と命名されておりますから「夕陽ヶ丘」の標識を見ますと大阪市内でありながら、郊外にきたような錯覚に陥ってしまいます。ところがこの地名には大きな意味があるのです。
西に極楽浄土
四天王寺は毎年春分の日前後に彼岸会を行いますが室町時代、春分の日に鳥居の真ん中に夕日が落ちるような位置に石の鳥居を造りました。昔は、この場所から夕方西を見ますと、須磨の一ノ谷に沈むすばらしい夕日が眺められたそうです。石の門には「釈迦如来
転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれてあります。「 お釈迦さんが説法を説く所であり、 ここが極楽の東門の中心である」という意味です。浄土思想では、地理的に西の方に絶対的な存在として浄土があると説きます。
夕焼け小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手々つないで皆かえろ 烏と一緒に帰りましょう
中村雨紅という人が1923年に作詞し瞬く間に全国で歌われるようになりました。夕日のイメージと寺の鐘の響きが、日本人の記憶に刻み込まれるようになったのがこの歌だといわれます。
「西の空に日が落ちる時刻、遊びに出かけている子どもたちよ、家に帰れ、親元に帰れという呼びかけである。おそらくそこに本来帰るべきところに帰れというもう一つのメッセージは含まれている。『烏と一緒に帰りましょう』とは烏のような生き物たちとの共生感覚であり、その共生感覚にはやがて人間は涅槃を迎えるという共死の無常観まで脈打っていたということだ。共生共死の人生観である。」(山折哲雄)
再臨は東から
4月24日、ローマ教皇に着座されたベネディクト16世は枢機卿時代の1999年に上梓した「典礼の精神(The Sprit of the Liturgy)」のなかで対面聖餐式に疑問を投げかけ、聖餐のサクラメントにおいては司式者も会衆も共に東を向いて祈りを献げるのは初代教会から続く伝統であることを強調しております。このことについては聖公会新聞6月号に横浜教区の大野司祭が詳しく紹介されておられる通りです。
コンスタンティヌス大帝が324年に聖ペテロの墓のうえに建造した聖ペテロ大聖堂の方角は西です。日曜日の朝、聖ペテロ大聖堂の礼拝に出席するために階段をのぼり入口に到着したとき、多くの信徒が後ろを振り向いて太陽に向かってお辞儀をしていました。その後聖堂のほとんどが東向きに建てられましたが、多くの信徒にとって祭壇に向かって礼拝することは、同時に太陽を拝むという行為と同一であったようです。約120年後、教皇レオ1世は、ローマのキリスト者が依然として太陽を崇拝する習慣を捨てないことを嘆いております。
さて、この方角に教会を建てるとき、一年のいつの日の、日の出の方向を選ぶべきだったのでしょうか。主イエスは春分の日前後、過越の祭の頃亡くなられたという伝承に従い、新たに教会が建てられるとき、その年の春分の日の、日の出の方角が正確な東と考えられました。教会が聖ペテロや聖パウロ、聖ルカなどの聖人の名を付ける場合、その祝日の日の出方角に聖堂は向けられたといいます。
キリスト者にとって太陽は神ではありませんし、神が東に住むわけでもありません。
東は全てのものの根源であり、天に昇られた主イエスは必ず東から世界を一新させるために再臨されるのです。聖餐式の最初に、司式者も会衆も共に東に向かい、「主イエス・キリストよ、おいでください」と祈る姿勢が求められるということになります。
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