二月といえば「節分」。「鬼は外、福は内!」というかけ声を子どの頃はよく聞いたものです。元来、節分は「季節を分ける」という意味で、季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日は全て節分でした。しかし、旧暦では立春が正月に近いために「立春正月」と呼ばれて共に祝ったことから、立春が他の節分よりも重要な位置を占めるようになったと考えられます。そして、現在も節分の日には、炒った豆を年男が「鬼は外、福は内!」と呼ばわりながら蒔きます。この時、蒔かれた豆を自分の年の数だけ、あるいは、年の数に一個多く拾って食べ一年の無病息災を願うという風習が地方では残っています。 この「鬼は外」という行事は中国から渡来し年末に宮中で行われていた悪鬼や厄神を追い払う「追儺(ついな)」と呼ばれる行事とお寺社で邪気を払うために節分に行われていた「豆打ち」の儀式が合体したものだと言われています。そして、古来、穀物や果実には「邪気を払う霊力」があると考えられていたので、豆を蒔くことで邪気を払い福を呼び込もうと考えたのでしょう。この「悪鬼」「厄神」あるいは「邪気」とは人間に病気や災いをもたらす悪い霊のことで、この世の平和を乱す悪霊を追い払うことは人間として自然な欲求であったと考えられます。
〈イエス様の場合〉
一方、イエス様も「悪霊」を追い出すという奇跡を度々行われましたが、果たしてこの出来事は何を意味しているのでしょうか。マルコ伝1章21節以下によると、イエス様と弟子たちがカファルナウムというガリラヤ湖の側にある町に来られた時、安息日にイエス様が会堂で教えておられました。その時、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて次のように叫びました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と。ここで注目したいのは「かまわないでくれ」という言葉です。この言葉は「全く無いものにしてくれ」あるいは「破滅させてくれ」という意味であって、汚れた霊が、取りついている男と共に神の聖者であるイエス様とは全く関係のない者にしてくれ、お前とは関わらなくてもいいのだ、と叫んでいるのです。それに対してイエス様は「黙れ、この人から出て行け」と烈火のごとく汚れた霊をしかりつけました。イエス様にとって他者との繋がりを切り裂いてしまう悪霊に対する怒りがその言葉に込められていました。
〈現代の鬼とキリスト〉
今年も阪神淡路大震災の起きた1月17日の朝を迎えました。あの日から11年が過ぎました。表面的には復興したかに見える神戸の街ですが、現実には未だに大きな傷跡を残しながら今日に至っています。たとえば昨年一年間に震災が原因で孤独な死を迎えた人が90名近くおられました。また現在も心のケアーを必要とする小中学生が約800名いると云われています。このように復興の陰で人と人との関わりが希薄になってきている事が指摘されています。本来、人は一人で生きることは出来ません。人はお互いに思いやり助け合って生きる者です。ですから他者を無視して一人で生きていけるという誤った考えは現代における鬼と呼ばれるものではないでしょうか。その現代の鬼は私たち一人一人の心の中に住み着いているのです。しかし、キリストは現代の鬼に束縛されている私たちを見捨てることなく鬼に向かって「黙れ、この人から出て行け」と語りかけられるのです。そしてキリストに全てを委ねて従う者を永遠なる命にしっかりと結び合わせて下さるのです。キリストが私たちを愛して支えて下さっているように、私たちも互いに相手を思いやり助け合える者でありたいものです。
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