聖霊降臨と現代

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 教会には主日以外にも様々な人たちがやって来ます。朝にお腹をすかせて何か食べ物が欲しいとやって来る人、田舎に帰る金が無くて困っているので貸して欲しいとやって来る人、また全ての教会が一致協力して伝道する方法があると長々と話をする他教派の人など。しかし、私がこれらの人たちと対応する中で最も困るのはしっかりとコミュニケーションがとれない場合です。特に相手が一方的にしゃべるだけで、聞く耳をもたない場合などは全くコミュニケーションがとれません。ですからお互いに「聞く」ことはとても大切だということです。〈コミュニケーションの欠如〉 ところで現代の日本社会は携帯電話やパソコンといった伝達手段は増えましたが、現実の隣り近所のつき合いは希薄になりお互いのコミュニケーションも十分にとれているとはいえません。また世界に目を向ければ国家間においてもお互いが自己主張するばかりで十分なコミュニケーションがとれなくて世界はますます疑心暗鬼の混乱した危険な状態に陥っています。

 〈バベルの塔と現代〉    
 旧約聖書にバベルの塔の物語があります。ノアの洪水の後、世界は同じ言葉を使って、同じように話していたのですが、人間たちは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」と云って塔を建てました。それに対して主なる神は降ってこられ、それを見て直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまいました。その結果、人間たちはそこから全地に散らされてこの町の建設をやめてしまいました。つまり神様は人間同士がコミュニケーションがとれないようにすることによって、人間が神のようになろうととする誤った目的を打つ砕かれたのです。ここで問題なのは、コミュニケーションがとれないということは、単に言葉が通じないということではなくて、異なる考えや異なる文化をもつものがお互いを理解しようとしなくなるということです。ですからお互いが語ることを「聞く」という姿勢をやめてしまえば、その関係は壊れていくほかありません。まさにコミュニケーションのとれなくなりつつある現代世界は崩壊の危機にあるといえます。それでは果たしてコミュニケーションの欠如による現代の危機的状況を克服する方法はあるのでしょうか。

 〈コミュニケーションの回復〉 
  この問いに対して聖書は「聖霊降臨」の出来事を記しています。キリストの昇天後、イエス様の弟子たちが一つになって集まっていると聖霊が降り、一人一人の上にとどまりました。「すると、一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使徒言行録第2章4節)。そして当時、エルサレムで弟子たちの語る言葉を聞いた大勢の人々は、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」(使徒言行録第2章6節後半)と記されています。つまり、故郷の言葉を異にする人々がそれぞれの言葉で、弟子たちからキリストの福音を「聞いた」ということです。バベルの塔によって示され、現代世界が抱える深刻なコミュニケーションの欠如に対して聖霊降臨はコミュニケーションを回復する出来事だということです。そして聖霊が働く時、多様な言語をもつ人々を一つにする主にある交わり(教会)が形成されていきます。そして、その交わりの中で人々は神を賛美し、互いに愛し合って永遠の生命へと導かれるのです。

 〈現代人の選択〉     
 人間は現在もコミュニケーションが欠如しながらもバベルの塔のように科学技術を駆使して高度な文明を造り上げようとしますが、果たしてそれでいいのでしょうか。


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