ニューヨークで起きた衝撃的な9.11同時多発テロから既に5年が過ぎた。世界貿易センタービルが破壊されたことは歴史的事実であるが、その陰で記録されなかった多くの事実があったことを最近のテレビ番組を通して知らされた。
〈罪の現実〉
ある男性生存者の証言によると、テロ発生後、友人と共に階段を使って降りる途中、その友人が足を痛めて自力では降りれなくなってしまった。友人を助けていたらおそらく二人とも死んでしまうだろう。厳しい判断に迫られていたのである。そこで出会った消防士の「立ち止まるな」という言葉に促されてこの男性は結局、友人を置き去りにして、その場を立ち去ってしまった。そして助かったのである。この男性は心から悔いていた。誰も彼を責めることは出来ないであろう。しかし、誰かが彼に罪の赦しの宣告を与えないと彼の心は癒されない。
〈獄窓の歌人〉
最近、一冊の本に出会った。題名は『死刑囚 島秋人』(海原 卓著)。獄窓の歌人として優れた短歌をこの世に残しながらこの世を去っていった一人の人間の生と死、また心を通わせた人びととの交流が描かれている。「島 秋人」。この名前は「当囚人」の当て字である。彼は貧窮と多くの病を患って育ち、15歳の時に栄養失調で母親を失い、その後、非行に走り少年院や刑務所に服役する。24歳の時、強盗殺人を犯して死刑の判決を受け、昭和42年(1967年)11月2日朝に刑の執行を受け33歳の生涯を終えた。しかし、彼が獄中で詠んだ短歌を集めた『遺愛集』が、彼の死後すぐに出版され40年を過ぎた現在に至るまで読み継がれている。何がこれ程までに人々の心を引きつけるのだろうか。
〈罪の自覚〉
死刑判決の出た半年後、島 秋人はかつての中学の恩師に手紙を出している。中学時代、「絵は下手だが、構図がおもしろい」と図工の先生に唯一褒められたことを思い出し手紙を出したのである。それに対して先生と奥さんが同情して慰めの返事を書き、その際に奥さんの短歌三首を添えて送ったのである。これが島秋人と短歌との出会いだった。それ以来、彼の希望で奥さんや著名な指導者の手ほどきを受けながら新聞や週刊誌に取り上げられるようになり獄窓の歌人として知られるようになったのである。また秋人の短歌が多くの人びとに感動を与えて評判になり始めた頃、昭和37年12月に彼は洗礼を受けている。この出来事は短歌を詠むことと無関係では無い。専門家によると、五・七・五・七・七という短歌の詩型は人の心の内面を省み、自己洞察をうながす回路として作用し、そうした心の動きを言語化(作品化)することによって人は慰めと解放の気持ちを得ると言う。また死刑囚は孤独である。だから誰かに守られている、誰かに理解されているという思いは心理的に大きな影響を与えるはずである。短歌を通して多くの人びとの支えを感じる中でキリストとの出会いがあったのではないか。島秋人は確かに大罪を犯した死刑囚であるが、彼は自らの犯した罪から目をそらすことなく真っ正面から向き合い、被害者に対して心から詫びて己の命をもって償おうとしたのである。これは秋人の「短歌は裸の心で詠まねばならぬ」とする態度にも通じている。
最後の朝、島秋人は、童顔をほころばせ、立ち会いの人びとに「長い間、お世話になりました。」と挨拶して刑台に向かったという。処刑寸前、彼は「最後の祈り」をした。立ち会った刑務官はその祈りに感動し「死刑囚も我が師なり」と言わせている。彼の熱い思いと命の凝縮した歌集「遺愛集」は、あたかも永遠の命があるように、現在も多くの人々に読み継がれている。
辞世の短歌
『この澄めるこころ在るとは識らず 来て刑死の明日に迫る夜温し』
|