キリストの降架

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 昨年の2月、十日間ほど休暇をいただいてベルギーを訪問した時、日本人には馴染みのあるフランダースの犬で有名なアントワープを訪問した。アントワープはベルギーの北部にある大きな港町でり、またダイヤモンドなどの宝石産業が盛んな商業の町で、その中心にノートルダム大聖堂がそびえ立っている。大聖堂の中にはベルギーが生んだ16世紀のバロック時代最大の画家ルーベンスの描いた絵画が展示されていた。その一つが「キリストの降架」と呼ばれる三翼祭壇画で、三枚の絵から構成され、天上から吊り下げられている。その中央の絵には十字架からイエス様を降ろそうとして八人の男女が必死になってイエス様の体の一部を支えあっている。その中でも目立つ赤い服を着た弟子のヨハネが真下でイエス様の傷ついた体をしっかりと抱きかかえている(写真)。その右側の絵には赤ちゃんイエス様を抱っこする赤い服を着たシメオン。左側の絵には赤い服を着た妊娠中のマリア様が描かれていた。これら三枚の絵には共通の主題があって、それは「キリストのために仕える者」である。つまりキリストが主役であって、キリストのために人間は奉仕する者、つまり「キリストのための私」であること。決して「私のためのキリスト」ではない。
キリストの降架

〈新しい生き方〉
 自分の信仰生活を振り返ってみて下さい。わたしのために、主よ、お救い下さいとか、病気を治して下さいとか、それ自体は悪いことではないかもしれないが、自分のためにキリストを利用してはいないだろうか。それでは信仰になっていない。大切なのは、本当の変わることのないキリストの愛そのものにぶつかる時であって、その時には、「わたしのためのキリスト」などともう言っておられなくなる。わたしは消え去って「キリストのためのわたし」でしかなくなる。むしろ、神のために、キリストのために私が生きるのである。これが新しい生き方であり、霊に生かされるということである。聖パウロはこの状態を次のように表現した。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と。(ガラテヤ書第2章20節前半)

〈フランダースの犬余話〉
 ところで、童話「フランダースの犬」を地元の人々はほとんど知らないようである。理由は作者が英国人女性で、1872年に書かれベルギ−でも出版されたが、内容的に欧州の価値観に合わずほとんど評価されなかった。しかし日本人観光客が多数訪問するようになり1986年に主人公ネロ少年とパトラッシュの銅像が建立されたという。ルーベンスにあこがれ画家を志したネロ少年が放火犯の濡れ衣を着せられ、住むところも希望も失って雪の降る中、アントワープの大聖堂に辿り着く。そして、彼が死ぬ前にぜひルーベンスの絵が観たいと思ったが、僅かのお金が無くて見ることの出来なかったその絵こそ「キリストの降架」だった云われている。


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