同行二人

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 先日、所用で久しぶりに四国・徳島を訪問しました。穏やかな春の日差しを受けて、明石海峡大橋や大鳴門橋を渡り、のどかな田園風景を楽しみながら車を走らせました。 春の四国路と云えばお遍路さんですね。今から約1200年前に真言宗の開祖・空海(弘法大師)によって四国霊場が開かれ、四国四県にある88のお寺を巡礼することによって煩悩が消え、願いが叶うと云われています。現在でもお遍路さんはいつも弘法大師と寝食を共にする思いで巡礼しながら、人々とふれあい、自然と向かい合って生きるための何かを学び、得ようと歩き続けているのです。このような生き方を同行二人と云います。

〈エマオへの旅〉
  聖書にはお遍路さんととそっくりな体験をする復活物語が出てきます。ルカによる福音書24章13節以下「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」 イエス様が息を引き取られてから三日目、ちょうどこの日、イエス様の二人の弟子が深い悲しみの中で、エルサレムから12q離れたエマオという村に向かって歩いている途中に、イエス様が自ら近づいて来られ一緒に歩き始められたというのです。

〈歩くこと〉
  「歩く」という行為は、イエス様にとってとても大切なことでした。イエス様は常に誰かと一緒に旅をされ歩き続けられました。特に弟子たちには歩きながら大切な教えを説かれました。イエス様の歩まれる道は十字架に至る苦難の道でしたが、また永遠の故郷に至る救いの道でもあります。そして弟子たちにはまだ目が遮られてイエス様とは分かりませんが、再び一緒に歩み始めておられるということです。

〈一緒に歩くイエス〉
  ところで二人の弟子が一緒に歩いておられる方がイエスだとは分からなかったのは、彼らが物わかりが悪く、鈍いからだとイエス様は云われました。ですからイエス様は歩きながら再び聖書全体について、特に御自分について書かれていることを二人にあつく説明されました。またその夜は村近くの家で寝食を共にすることになり、食事の席に着いたとき、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった時、二人の目が開けイエス様だと分かったというのです。おそらく二人の弟子は生前イエス様が最後の晩餐でパンを裂き弟子たちに渡された出来事を思い出したのではないでしょうか。これによって二人の弟子は、イエス様が十字架の前も後も変わることなく一緒に歩いて下さっていることに気づきます。そして自分たちは決して独りぼっちではないと云う喜びが沸々とこみ上げてきたのではないでしょうか。 復活の主は今も私たちと一緒に歩いて下さっています。


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