上を向いて歩こう

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 毎年、昇天日を迎えると思い浮かべる作家がいる。太宰 治である。彼は1909年(明治42年)に青森県の裕福な家庭に生まれ、東京大学在学中に共産主義にのめり込んだが、目的のためには手段を選ばないというやり方に失望し脱落する。その後、バーの女と江ノ島で心中をはかり自分だけ助かるという体験をする。これが彼の心の中に大きな罪意識として残り、その後の生き方や作品に大きな影響を与えたと云われる。これ以後、彼は遺言のつもりで有名な小説をたくさん世に出したが、生活はその罪意識にさいなまれながら、彼自身の性格の弱さもあって、酒と女に溺れ地獄の様な生活であったと晩年、彼自身が小説の中で語っている。 太宰は1948年(昭和23年)に別の女性と玉川上水で入水自殺をしてこの世を去る。その直前に書かれた小説が『人間失格』だった。この中で太宰は次のように書いている。「いまは自分には幸福も不幸もありません。ただ一切は過ぎていきます。自分が今まで阿鼻叫喚で生きてきた、いわゆる“人間”の世界においてたった一つ真理らしく思われたのはそれだけでした。ただ一切は過ぎていく。」と。太宰が最後に真理として分かったことは「この世のものは 全て過ぎ去っていく」ということだった。つまりこの世に永遠なるものは存在しないと云うことである。だから自分の犯した罪にさいなまれ解決の糸口を見いだせなかった太宰は、最も信頼できる自分の手で自らの命を絶つという形で罪に決着を付けたのではないだろうか。イエス様を裏切ったユダに似ている。

〈キリストの昇天〉
 太宰もそうだが、人間は誰しも人生を思い通りに生きることは出来ない。アダムとエバが神様との約束を破って信頼関係を破壊したことにより、人間は神の庇護を離れ思い通りに生きようとするのだが、自分自身を守るために相手を配慮できなくなってしまったのである。これが罪の状態である。しかし、このような他者を愛することが出来ず自分勝手に生きる人間であるにもかかわらず、聖書は人間の罪を赦し、かわることなく愛して見守っていて下さる方がいることを証言する。それが十字架に死んで復活され、天に上げられたキリストだった。「天」とは空高い所ではなく、時間と空間を超えて神様の支配される領域を意味している。だからキリストの昇天とは、復活されたキリストが全能の父なる神と再び一体とされ、全能の神と一体であるキリストがこの現実の世界をを含む全ての世界を支配しておられることを示す出来事だった。

〈上にあるもの〉
  おそらく太宰は過ぎ去っていくこの世の表面的な現実だけを見ていたのであろう。そこには光も希望もない。聖パウロは信仰の仲間達に次のように勧める。『上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。』(コロサイ書3:1-2)と。 「上にあるもの」とは「天」を指す。もしも太宰がこの現実の世界の背後に天を見いだしていれば彼の人生も変わっていたのではないか。彼の小説の中には時々、神、祈り、キリスト教といった言葉が出てくる。彼自身もキリスト教に関心があったことは間違いない。現代に生きる私たちも、過ぎ去っていくこの世の背後で現在も私たちに語りかけてこられる方を仰ぎ見上げて生活したいものである。


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