西暦1859年6月29日(安政6年)、世は幕末、一人の宣教師が長崎に上陸した。アメリカ聖公会より派遣されたウイリアムス司祭(C.M.Williams)である。以来、日本における聖公会の歴史が始まり、来年で宣教150年の節目を迎える。日本聖公会は現在、英国よりカンタベリー大主教をお迎えして記念行事を行うべく準備を進めている。果たして神は現在に至るまでの日本聖公会の福音宣教の働きをどのように総括されるであろうか。
〈現代におけるバベルの塔〉
ところで、最近、アジアで続いて大災害が起きている。死者10万人以上とも云われるミャンマーでのサイクロンによる大水害や中国・四川省で起きた大地震など多数の死者や負傷者が出ている。にもかかわらずいずれの国も当初外国からの救援物資は受け入れるが、人的救援は断っていた。おそらく政治的指導者達の勝手な思惑によるものであろうが、人と人、国と国、民族と民族との間に横たわる大きな壁を感じさせられる。 旧約聖書に出てくる「バベルの塔」は、言葉が同じで、新しい技術を獲得した人間が天に至る塔を建てようとした時、神は言葉を混乱させて、人々を世界中に散らさせ建築を出来なくさせたという物語である。つまり人間の世界とは、本来、相手の言葉を聞こうとせず、お互いに相手を理解したり、助け合ったり出来ない状態にあるのだ、ということをこの物語は教えている。だから、相手からの助けを断るというミャンマーや中国で起きているような悲惨な出来事は、人間の身勝手さ、あるいは民族主義という形をとった現代におけるバベルの塔の姿をよく現している。では、このような人と人、国と国、民族と民族を分断する壁を打ち破る術が果たしてあるのだろうか。
〈聖霊降臨の奇跡〉
新約聖書・使徒言行録第2章4節に次のように記されている。『一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。』 つまり、イエス様の使徒たちは聖霊なる神に満たされた時、違った言葉で話し出して、それを聞いた人々はあっけにとられてしまった。なぜなら、聞いた人が慣れ親しんだ言葉を使徒たちから聞いて内容を理解できたからである。つまり、ここで重要なことは、聖霊が降って満たされる時、その人の語る言葉は相手に聞かれ、理解されるということである。だから、聖霊降臨は、「バベルの塔」の物語が教える現実の世界、お互いに聞くことも、助け合うこともしようとしない状態を克服する出来事であり、また「私」という枠によって作られる分厚い壁を打ち砕いて様々な言葉や考えをもつ人々を一つにする出来事でもある、ということである。
〈聖霊に満たされた教会〉
ウイリアムス司祭が初めて長崎に上陸した時、日本では伝道が禁止されていた。また彼自身も日本人に福音を伝える術がなかったであろう。しかし、彼は近い将来伝道が許可される日に備えて日本語を学び、祈祷書の翻訳、伝道用のパンフレットの製作に励んだ。そして伝道が解禁となり1868年(慶応2年)に最初の受洗者が与えられた。つまり言葉が通じ、福音が理解されたと云うことである。彼がこれ程までに日本人を愛し、命がけで福音伝道に駆りたてたものは何だったのか。これこそ聖霊の働きでなくて何であろうか。 果たして現代に生きる私たちは、十分に聖霊に満たされ突き動かされているのだろうか。
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