教会の暦では大斎節に入り、復活日を迎えるにふさわしい心の準備をする期間として守っている。その過ごし方として古来から「祈り」「断食」「施し」が勧められてきたが、これらの行為には如何なる意味があるのだろうか。
〈断食とは〉
大斎節に入るとよく断食しろよと先輩聖職から言われたものだが、何故するのかよくわからない。イエス様も断食しろとはおっしゃっていない。只『断食する時には、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔をしてはいけない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。』(マタイ伝第6章16節)と言われた。何故イエス様は断食していることを人に見られてはいけないというのだろうか。
断食とは、本来、苦しみや悲しみ、懺悔の表現であって心も体も全てを集中して神様に身を向けることである。
〈魂の叫び〉
神学校を出たばかりの伝道師が希望に燃えて地方の教会に赴任して3年。彼は一所懸命伝道して、精一杯頑張ったけども一人も信徒を得られなかった。やがて妻は過労で倒れ、子供は高熱を出して、彼自身もくたくたに疲れてベストリーの中でへたり込んでしまった。その時に天を仰ぎながら口をついて出てきた言葉が「主よ、憐れみ給え」だった。この言葉が魂の奥底からの叫びであって、断食はこのような思いの一つの表現なのである。このように人は神様のみ前に立って自分の苦しみや悲しみ、懺悔の心を神様にさらけ出して、神様からの赦しと慰めをいただくのである。
〈悪魔のささやき〉
ところが人間はそのような自分は他人にも打ち明けて「よく頑張ったね」と言ってもらうに値すると思ってしまう。心のどこかに神様を離れて人間に目を向け、人々から直接慰めの言葉をかけてもらいたい、よく見られたいという偽りが入り込んでくるのである。これが悪魔の誘惑である。創世記3章でエバが蛇の語りかけに負けて、神様から目をそらして罪を犯してしまったことを思い起こさせる。それに対してイエス様は徹底的に自分と戦うことを教えられる。他人のまなざしではなく、神様のまなざしの中にのみ固く立つことを要求される。自分はこんなに苦労したと過去の体験を他人に自慢げに語る人がいるが、その人は既に神様との信頼関係を破壊して神様からの慰めをいただけなくなっている。だから人は他人の評価や同情を気にしながら、これらを拠り所として生きてはいけない。人は神様のみを拠り所として苦しみや悲しみ、懺悔の叫びを打ち明ければよい。それに対して神様は必ず赦しと慰めを与えて下さる。
〈砕かれた心〉
「祈り」や「施し」も同様に他人からよく見られようとして行うものではない。しかし、人は現実に他人の目や評価を気にしないで生きてゆけるのだろうか。それは不可能である。やはり神のみ前に正しく立てない人間は懺悔あるのみである。その砕かれた心こそ大切なのである。
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