「見えてますか!」

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 30年も前の事である。四国の山間にある小さな温泉宿で教会の修養会が開催された。澄んだ空気とせせらぎの音がとても心地よく黙想するには最適の場所である。豊かな自然の中で、講師の指導に従って黙想していると心癒される思いがした。 やがて夜のとばりも降りて夕食をいただいた後、聖書の輪読会が始まった。参加者は全員が車座になり、マルコによる福音書を最初から最後まで、一人が五節づつ読み継いでいく。順調に行われて、中頃に達したときのことである。ある牧師さんがこんな提案をした。「それでは全ての灯りを消して読んでみましょう」と。その時、参加者の多くがビックリした。人里離れた山の中である。外は真っ暗で、部屋の灯りなくしてどうして読むことが出来るだろうか。誰しもが呆れかえっていた、その時である。真っ暗闇の中から聖書のみ言葉がはっきりと聞こえてきたのである。初め何が起こっているのか全く判らなかったが、参加されていた目の不自由な信徒の方が点字で聖書を読んでおられたのである。この時は将に目から鱗が落ちる思いであった。普段「見える」と当然のように思っていたことが、実はそうではなかった。光があって人は見ることが出来る。人は何かの助けがなければ見ることも、生きることも出来ないという事である。

〈教会の歩むべき道〉
  イエス様は次のような譬を話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」(ルカ伝第6章39節)と。この場合の盲人とは、本当は見えていないのに、見えていると思いこんでいる人たちのことである。この教えは現代の教会に対するイエス様からの警告でもある。教会の歩む道はイエス様に従う道である。果たして私たちの教会は進むべき道がはっきりと見えて歩んでいるのだろうか。
  「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ伝第16章15節)この単純明快なイエス様の最後のご命令は教会の道しるべである。現実に日本という異教社会における伝道は厳しく狭い道である。しかし、大切なことは如何に日本のキリスト者が全ての日本人を、また日本という国を愛しているのか、という事である。特定の人々とだけ福音を分かち合うなどという事があってはならない。日本伝道において、最後までイエス様に従い切れない私たちであっても、見捨てることなく憐れみ続けて下さる方がおられる。その方に「主よ、助けて下さい」と呼び求める所で見えて来る道、それが生命に至る道なのである。

〈記念の年〉
  今年は日本聖公会宣教150年の記念すべき年である。また神戸聖ミカエル大聖堂にとっては1959年に当時のカンタベリ−大主教フィッシャー師父によって聖別されてから50年の記念すべき年でもある。日本聖公会は欧米の教会に比べたらはなはだ歴史は短いが、くれぐれも誤った方向には行って欲しくないものである。


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