今年も8月5日の夕方、広島で行われた平和行進と「平和祈願ミサ」に参加させていただき、カトリック教会の聖職や信徒の皆さんと共に聖餐に与り、祈りをささげる機会が与えられて感謝だった。
〈広島と長崎〉
昨年、初めて長崎を訪問した。平和公園をはじめ浦上天主堂や原爆資料館など訪問したが、同じ原爆が落とされた広島と比べて原爆の悲惨さが強く感じられなかったのはわたしだけだろうか。 長崎に投下された原爆の威力は広島型と比べて1.5倍と言われている。ところが投下場所が市街地中心部からそれて浦上天主堂近くであったために原爆の熱線や爆風、放射線などは山などに遮(さえぎ)られたために、街の中心部で被爆した広島と比べて被害は小さかったと云われている。ところが長崎の場合、問題は別の所にあった。それはこの原爆によって浦上地区に住む約9000人のクリスチャンが犠牲になったのである。キリスト教国アメリカにとってこの事実は人々の記憶から消し去りたいものであったにちがいない。戦後、広島の原爆ドームのように被爆した浦上天主堂を保存しようとする動きがあったが、突然中止になったと言われている。真相は未だ闇の中である。 かつて東洋一とうたわれた浦上天主堂の正面祭壇の最上段に安置されていた、高さ2mに及ぶ木彫りの寄せ木細工で造られた無限罪のマリア像が被爆によって焼失したと思われていた。ところが後に高さ26pの顔の部分だけが変わり果てた姿で発見されたのである。「被爆マリア」と呼ばれるこの顔の部分は、戦後再建された浦上天主堂の一角に新設された小聖堂の祭壇中央に静かに安置され、原爆の恐ろしさを現在に伝えている。
〈平和の実現と神の子〉
『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。』(マタイ伝5:9)有名な山上の説教の一節である。神の子というと思い出すのが荒野の誘惑である。悪魔は空腹のイエスに神の子なら石をパンに変えるようにと誘惑する。それに対してイエスは『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と答えられた。人間にとって肉の糧も大切ではあるが、それ以上に大切なものがある。それは、傲慢(ごうまん)で罪深いわたしを見捨てることなく永遠に愛し続けて下さる方がおられるという真実。その方を信頼し服従して生きる者が神の子なのである。主イエスはパウロに語りかける。『わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』(Uコリント書12:9)と。
〈平和と教会の宣教〉
逆に自らの力で平和を実現できると思いこんでいる人間は、その強さの源である罪の問題を解決しないままで、平和を実現しようとしても不可能だと聖書は語る。むしろ平和を実現するために大切なことは罪が赦され己の弱さを誇ることの出来る神の子が一人でも多く与えられることである。将に平和の実現は教会の宣教の業(わざ)そのものなのである。
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